暗闇を歩け。
漫画を原作にした映画を立て続けに観たことがある。観たくて堪らなかった訳ではなく、何かを枷にすることも必要だと思って挑戦してみたのだが、存外楽しく、夢中になってしまった。
観たのは以下の作品である。
『X-MEN』
『X-MEN2』
『バットマン』
『バットマン・リターンズ』
『バットマン・ビギニング』
『ダークナイト』
『X-MEN』は映画で観るまで知らなかったが、『バットマン』は一応アニメーションの歌を覚えているので、子供の頃にテレビで見たことがあるのだろう。が、当時のことは殆ど覚えていない。
すべてDVDで、二日に渡ってこれだけ観たら流石に疲れた。
観た順番は上記の通りだが、『バットマン』の方から書こうと思う。
『バットマン』と『バットマン・リターンズ』はティム・バートンがメガホンを取り、『バットマン・ビギニング』と『ダークナイト』はクリストファー・ノーランの監督作である。
あまりの作風の違いで意見が分かれるだろうが、わたしはティム・バートンの作り上げたバットマンが好きだ。元々ティム・バートンが好きだったと謂うのもある。『ビギニング』は買ったまま忘れていて、この時はじめて観た。
続編はオリジナルを越えられない、と謂うジンクスを、我が身をもって打ち壊したティム・バートン。これは凄いことである。
映画のバットマンしか知らないわたしは、登場人物らが背負った「悲しみ」に惹かれた。
両親をチンピラに殺された少年時代から孤独を抱えてきたバットマン。仲間に裏切られ、廃液に浸かって笑った顔が張りついてしまったジョーカー。畸形の体に生まれたばかりに、クリスマスの夜、まだ乳飲み子だというのに乳母車ごと用水路に棄てられたペンギン。会社の機密書類を仕事の資料として調べ上げてしまい、社長自らの手で、やはりクリスマスにビルの窓から突き落とされる冴えないビジネス・ガール。
しかし、ジョーカー役のジャック・ニコルソンはどう贔屓目に見ても巫山戯すぎで空廻りしており、死んでも同情の念が湧かなかった。
ティム・バートンは恐らく、サーカスや移動遊園地のような賑やかさと胡乱な雰囲気が同居する世界を演出したかったのだと思う。二面性と謂うのがバットマンそのものだからだ。
そして何より魅力的だったのが、五十年代のアメリカのような風景と『未来世紀ブラジル』や『ブレードランナー』に見られる近未来の世界観を混ぜ合わせたような、懐かしさと暗さを併せ持つ架空の街、ゴッサムシティである。この街こそが主役だったと云ってもいいくらいだ。
ニコルソンのジョーカーは、見た通りの道化者だった。では、『リターンズ』に於ける敵役のペンギンとキャットウーマンはどうなのか。
こともあろうにひとびとが神に感謝し、家族で良き日を祝うクリスマスの夜、ひっそりと棄てられたペンギン。彼は中年のおっさんになるまで、自分の本当の名すら知らなかった。ひとと違う外見に生まれただけで。
キャットウーマンになった女性はどうだろう。
仕事から帰り、誰も居ない部屋に向かって「あなた、帰ったわよ」と声を掛ける孤独な生活。留守番電話からは母親の小言に近い数件のメッセージと、つき合っているのかどうなのか判らない男からの「ひとりでバカンスに行くよ」と謂う冷たく乾いた言葉が再生される。その中に仕事の伝言があり、会社へ戻ったら例の機密書類の件で、行き違いの末、彼女は塵芥を棄てるかのように窓から突き落とされてしまう。
彼女は奇跡的に助かり、よろよろと虚しいアパートに帰る。そしてもう一度、「ハニー、アイム・ホーム。ああ、わたしは独身だったわね」と云いつつ、冷蔵庫から紙パックの牛乳を取り、飼い猫の皿にざばりと入れ、自分もパックから直接ぐびぐびと飲む。まるで自棄酒でも呷るように。
否、この時点で彼女はもう頼るものなど居ない孤独な猫になっていたのだから、自棄酒ならぬ、自棄牛乳だった訳だ。
彼女に関しては矛盾が多い。何故、地味で冴えないビジネス・ガールの洋服箪笥に贋エナメル・レザーのコートがあったのか(まあ、それは隠れた趣味かも知れないし、どうとでも説明はつくのだが)、唐突に身体能力が上がり、鉄の扉すらへし曲げる力を何処で得たのか。
しかし、これは漫画なのである。ひとの子をペンギンが育てられる訳がないし、普通の女性がいきなり超人じみた能力を持つ筈もない。それを前提にして観なければならないのだ。いちいち揚げ足を取っていたらきりがない。
お伽噺として、この物語はとても悲しい。親に棄てられ人間から隔絶したところで生きてきた男と、敵対すべき蝙蝠男に惹かれながらも、これまでの経験から男を信用出来ず、鞭を振るい、爪を立てることしか出来ない女。
ふたりとも極限までの孤独に苛まされている。世間に必要とされない悲しみに、悶え苦しむほど愛情を渇仰する「餓鬼」なのだ。そう謂う意味では「化け物」であることには違いない。
この深さが、前作にはなかった点である。
バットマンになる前後のブルース・ウェインを描いたのが、『バットマン・ビギニング』である。
他の超人的ヒーローと違って、バットマンであるブルース・ウェイン自身は特殊な能力を持っている訳ではない。鍛え抜かれた肉体を、金に飽かせて作らせたスーツや車で補っているのだ。これらの設定は、観る側には了解済みのことである。
そもそも有名な漫画が元にあるのだから、いちいち説明する必要などない。それを無粋にも理詰めに描くので、興醒めとしか云えないのがこの作品の最大の欠点であった。まるで手品の種を明かされるように、げんなりしてしまう。
しかも、リーアム・ニーソンが出ているからなのか、ハリウッド側の要請だったのか、肉体鍛錬の舞台はアジアの何処か山頂で(何故か渡辺謙が出ている)ニンジャを使ったスターウォーズ的なものなのだ。
必要以上の現実味を持ち込むならば、屋敷にジムを作り、トレーナーを雇えば済むことである。
監督が英国人なので芸達者な英国人俳優が多く出てくるが、何故か精彩を欠く。しつこいようだが、やはり映画の大半を、バットマンは如何にして出来上がったのかの説明に費やしている印象しか与えないからだと思われる。
バットマンの名を題名から排した『ダークナイト』は、おちゃらけたジャック・ニコルソン版ジョーカーの印象を覆すが如く、オーストラリア出身のヒース・レジャーがまさに「怪演」している。彼の演技を観るだけでも価値があると云えるだろう。冒頭の『キリング・ゾーイ』風の強盗シーンも小気味良かった。
しかし、現在でもありそうな無機質な都会のビル群。本物を借りているのかセットなのかは判らないが(あれくらいのデザインのものなら都会のビルにあるのかも知れない)、大きなガラス張りの窓や扉が多用されているのは「割られる為」だと謂うのが丸判りである。
セットやCGも多いと思うが、娯楽大作であるだけに資金も莫大なものだったのであろう。街中の大掛かりな撮影場面も多い。しかし、既視感が伴う。高架下を車が走ってゆく場面を見た時、ふと『フレンチ・コネクション』を思い出してしまった。
前作で採用された古い邸宅はもう出てこず、ティム・バートンが作り上げた、レイ・ブラッドベリとジャック・フィニィに悪意と暗黒を振り撒いたようなゴッサムシティの面影は欠片も残っていない。
秘密基地であったバットマンの象徴とも謂える洞窟すらなくしてしまっては、ブルース・ウェインが悪を懲らす自警団(ひとりだから自警人か)として装甲スーツやら最新兵器などのガジェットを使えばいいのであって、蝙蝠の仮装をする理由は喪失している。
この映画は、ヒース・レジャーが演じたジョーカーと称する狂騒的で愉快犯的な異常犯罪者のサスペンスとして観るのが正解なのかも知れない。
そうすると、バットマンと謂う玩具のような存在は邪魔ですらある。これは恐らく正しい解釈だと思うのだが、どうなのだろう。
最後まで観ればはっきり判るのだが、この映画は『バットマン』を葬り去る為のものであることが解る。だから、題名にはバットマンのバの字も出てこないのだ。ご丁寧に説明的な科白を、ゲイリー・オールドマンにちゃんと云わせている。
残念だったのは、美女が出てこないことである。これにはがっかりさせられた。やはり『バットマン』には美女だろう。
笑えてしまうのはバットマンの仮面だ。
ティム・バートン版ではビニールでも引き裂くようにして剥ぎ取るのだが、どちらのバットマンもつけている時は目の周囲、眼窩に当たる部分は仮面に覆われていないので、直接皮膚を黒く染めている。ふたりの役者は仮面を取ると、パンダのようだったろう。
コメディ役者だったマイケル・キートンは『ビートルジュース』でもっと酷い化粧をしていたが、シリアスな印象しかないクリスチャン・ベールは気の毒と謂うか、周囲の反応はどうだったのだろう。
ジョーカーを演じたヒース・レジャーはこの後、二十八才と謂う若さで急性薬物中毒に依り亡くなった(違法薬物ではなかったらしく、自殺だったと思われる)。ハリウッドはこうしたお涙頂戴な顛末に弱いので、オーストラリアからやって来てアイドル的な扱いを拒み、狂いまくった演技を残して死んだ彼にオスカー像を贈った。
(2015年4月18日)
「X-MEN」
この映画は(漫画についてはまったく知らない)人種差別について物語っている。はっきり云って、大人の目から見れば暗喩ではなく、直喩である。
最初の作品では、「ミュータント」を隔離すべきだと謂う政府の議論が云い交わされる場面から、まるでナチスに依るホロコーストのような場面へ移る。このオープニングが、それを示唆している。
突然変異が思春期に現れる症状として頻出し、恐れるが故に封じ込めようと謂うのがこの映画の基本を成している。現実的に云えば突然変異が第二次性徴期に多発する、と謂う設定はどうかと思うが、ジーン・ミューテーションが成長の途中で起こることは実際にある。
ひとりの少女はボーイフレンドとはじめてのくちづけを交わした時、相手の生命力を奪ってしまう能力を発揮する。そして、その辺りの詳しい描写は端折られているが、彼女は家を出て放浪する道を選んだ。その途中で出会ったのが、金網の中で行われるプロレスで金を稼ぐ男である。彼も驚異的肉体回復力を持つ「ミュータント」だったのだ。
敵対するのは人間だけでなく、ミュータント同士の争いもある。穏健派のプロフェッサーXは非能力者の人間との平和共存を求め、子供たちが世間の目に晒され迫害されないように寄宿舎を作った。対するマグニートーは、人類を敵に廻すタカ派である。
「2」では、前作で囚われたマグニートーは野心を捨てず、人間を自在に操ろうとする。
前作でX-MENたちと戦ったミュータントが成り行き上、助け合うのだが、彼らはあまりにも悲しい存在だった。
寄宿舎を追われて数人の仲間と実家に帰った少年は、帰って来た家族に自分はミュータントであることを告白する。施設は表向き「天才児教育機関」とされていた為、両親は驚き、怯えた目で息子を見遣る。もう、そこには愛情はなく、怯えと恐怖の色が浮かんでいた。そして、弟はこっそり二階へゆき、警察に通報する。血の繋がった家族ですら、こんな反応をしてしまうのだ。
闇のような色の肌をしたトード(ヒキガエル)と謂う男は、その名の通り舌が伸びてものを捕まえられる能力と、空間移動が出来る。ただ、壁をすり抜ける訳ではないので、移動する先の状態を知らなければならない。
本人が移動した場所が中空であったり壁などの中だったりしたら、死んでしまうからだ。つまり、移動した先が崖っぷちの先であれば落下してしまうし、壁だとどうなるか詳細は判らないが、海中や宇宙空間であったならば、窒息死する。
トードは悪いことをすると大天使が御言葉をくれると信じていた。それを偶然耳にしたストーム(ハル・ベリー)が、「美しい言葉ね」と声を掛ける。彼は「君のようにきれいなひとは怒りを持ってはいけない」と云う。だがストームは、怒りは生きる力になるのだと答えた。
これはハル・ベリー自身の言葉のように聞こえる。
黒人と白人の間に生まれた彼女は差別を受け、学生時代は「オレオクッキー」と呼ばれていた。2001年公開の『チョコレート』で、史上初のアフリカ系アメリカ人としてアカデミー主演女優賞を獲得した際のガッツポーズ、涙ながらのスピーチは、極東の一映画ファンといえども、胸に迫るものがあった。
そして、青いトカゲのような皮膚を持ったミスティークは、どんなものにも服装に至るまで変身出来る。トードが彼女に、いつも誰かの恰好をしていたらいいんじゃないかと助言すると、「そんな必要などないわ」と冷たく云い放つ。彼女はもう、自分を守る気すらないのである。
ただ只管、ひとからの命令を着実にこなすことだけが彼女を生かしていた。自分の為に何かしようとは思わない。恐らく、命令として「死ね」と云われたら、微塵も躊躇せず死ぬだろう。彼女には、自分がないのだ。その能力と同じように。
ハル・ベリーのように人種的な差別を受けたひと、そして監督のブライアン・シンガー、マグニートーを演じたイアン・マッケランがゲイであることを公表している。この作品は実際に、社会から黙殺されるか、蔑視されるひとが参加して作られているのだ。
差別を受けるひとびとが、何か悪いことをしたのだろうか。はっきり云えるひとは居ない筈だ。
わたしは思う。いっそのこと、すべてのひとの肌があらゆる色で、口が利けないひとや眼の見えないひとなどが、五体満足なひとと同じくらいの割合で居たならば、どんな世界になっていただろうかと。
漫画原作の娯楽映画で済まされない、鋭い社会メッセージを持つ作品だと思った。
(2016年3月18日)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?