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 彼の名は甲斐澤晅三といった。カイザワケンゾウ——字面からすると珍しく思われるかも知れないが、口にしてみると、どうと謂うことのない普通の名前の人物である。
 美しい顔立ちをしていた。無造作に伸ばした髪は緩く波をうって頬に被さっており、喋ると引き攣るように口許が歪められたが、それすらその美しさを損なうことはなく、却って際立たせるようにも感じられた。
 ぼくたちが出会ったのはふたりとも十七才のはじめの頃、N県の少々寂れた土地にある、山と謂うよりは丘に近い森の中に埋もれた療養所だった。
 ぼくが収容されたのは、自分と世間の折り合いが巧くつけられない、他人との距離感が測れない——そう謂った、平たく云うと『社会不適応者』を収容する施設である。季節的には春だが、まだまだ肌寒い頃だった。
 内科病棟も外科病棟もあったが、「棟」と謂うのは建物のことではなく、階ごとの割当を指すようである。一般病棟(内科、外科病棟)から中庭を挟んで離れてはいたが、さして隔絶された状態にある訳でもなく建物は建っていた。
 精神科の病棟は表からすると奥にあり、入院施設は二階から四階だった。思春期病のような軽く看做される患者は二階、中程度の病状の者は三階、重度の患者は四階、と謂うことらしかった。
 ぼくは二階の「第五病棟」に収容された。
 理由は統合失調症、及び、処方薬の過剰摂取。
 最初は救急車で一般の病院に運び込まれ、胃洗浄をされ、一日半、意識がなかった。ぼくのことを見捨てていた父親は顔を見せなかったが、母が甲斐がいしく世話を焼いてくれた。
 それをいいことに、ぼくは徹底的に(てっててきに?)母に甘え、慾しいものをメモ帳に書いては持ってきてもらった。母は半ば怯えた表情で、そして呆れたような素振りもして、ぼくのメモに書かれたものを家から持ってきた。
 そして、どう謂ったやりとりがあったのか知らないが、実家から遠く離れた、まるで昔のサナトリウムのような処へぶち込まれて仕舞った。
 看護士からひとわたり説明を聞き、危険物(ナイフ、剃刀、カッターナイフ、ライター等)を預け、ベッドにやれやれと横たわっていると、件のカイザワがやってきたのだ。
 新入り苛めでもあるのか、と身構えたが、彼は何も云わず、棚に立て掛けた本の背表紙を眺めていた。が、不意に此方を向いて、彼は云った。
「あらかた没収されたのか、元々持っていなかったのか……」
 持っていなかったんだろうな、と彼は幽かに笑った。
「此処は未成年の喫煙は暗黙の了解と謂うか、お情けで許されている。ただし、ライターはナースステーションの窓口に……、結構な鎖で繋げられている。君は見るからに正直で気が弱そうだから、ライターなんか持っていなかったんだろうけどな」
 ぼくの荷物を勝手にひっくり返しながら、彼は独り言のように呟いていた。部屋は六人部屋だった。名を訊かれ(ベッドの足許に札が下がっているのだが)木田高だと答えた。彼はひょいと屈んで名札を確認し、「木のてっぺんに居るんだな」と薄く笑った。
 冷笑的だが、厭味ではない。
 それが彼の第一印象だった。
「此処はまあ、所謂、自由病棟だ。好きに何処へでも行ける。時間を守りさえすればな。男も女もごたまぜだ。消灯後は三十分おきに看護婦が見廻るが、皆、睡眠薬で眠りこけている。間違いが起こったことは一度もないらしい」
 君はどうして此処にぶちこまれたんだ——彼は手荷物から適当に文庫本を取り上げ、ぱらぱらと頁を捲った後、それをぼくに突きつけた。
「ひとと……、巧くやっていけなくて」
 彼は神経質に、片頬を引き攣らせるようにして笑った。
「此処に居る奴らはみんなそうだよ。躁鬱病、対人恐怖症、パニック障碍、摂食障碍、よりどりみどりだ」
 君はそうじゃないんだろう。
 ぼくに本を突きつけたまま、彼はそう云った。
「色が違うんだよ、他の奴らと」
 ぼくは何も云い返せなかった。
「此処も外の世界と一緒だ。凝縮されている分、もっとやり難いかも知れない。出て行きたければ、上手に嘘をつく練習をするんだな」
 本を布団の上に置き、彼は病室から出て行った。

   +

 第五病棟のナースステーションから見て左側の二番目の病室が、ぼくの場所となった。
 六人部屋だったが、週末なので皆、外泊(自宅へ帰ることを、そう云う)していた。病棟は男女混合とは謂え、病室はさすがに男と女で分けられている。看護婦が云うには、この病棟の住人は殆ど学生ばかりとのことだった。中年と云っていい年頃の者も居たが、症状が軽いのでこの病棟に居るとのことである。ぼくのベッドは、内側から見て扉の右から二番目だった。
 カイザワと謂う男は、少なくともぼくよりは年上に思えた。
 病棟は外泊する者が多い所為か閑散としている。
 ナースステーションの前が談話室兼食堂だった。彼はそこの窓際の席で雑誌をつまらなそうに眺めていた。
「家に帰らないんですか」
 そう声を掛けたら、不審そうに顔を上げた彼は、ぼくを認めると問いかけには答えず、
「荷解きが済んだのか」
 と云った。
 何を読んでいるのかと覗き込んでみたら、この地方発行の情報誌だった。
「それ、面白いですか」
「どうだかね。活字を追っていると時間が潰せるのは慥かだ」
 ぼくが持ってきた本を読みますか、と云ってみたら、あっさり断られた。
「意味のあるものを読まない方がいい。此処の生活が辛くなるだけだ。来る時に見ただろう。鬱陶しいくらいの樹木に囲まれている。この病棟の裏に沼があるんだ。ひと月にいっぺん、そこに患者が這入り込む。沼だからちょっとやそっとじゃ沈まないし、引き上げるのもひと苦労だ。しかも臭い。死にたくなったら、屋上から飛び降りた方が簡単だ」
 死ぬ気なんかないです、そう答えたら、彼は「それはいい心がけだ」とだけ返した。
 ナースステーションに断りを入れて帳面に「近隣の散歩」と書き込み、彼が云った沼を見に行った。深緑色に沈んだ、碌に日光も反射しない、鬱々とした雰囲気の溜め池のようなものだった。慥かに、妙に生臭い臭気が立ち籠めていた。こんな処へは、頼まれたって這入りたくない、とぼくは思った。

    +

 日曜日の夜に外泊していた患者たちが戻ってきた。
 慥かに若者ばかりだった。中学生、高校生、浪人生、そんなものである。此方を見て、こそこそと何か云っていた。それがぼくに関してであることは明白地に判る態度だ。
 学校の教室のように姦しかった。
 皆の関心は、なんでぼくが此処にぶち込まれたか、と謂うことだった。
「対人関係が巧くいかなくて」と、ありきたりなことを適当に答えると、
「ああ、登校拒否か。拒否ってる奴、多いよ。学校の奴らなんて低能ばっかだからさあ、話なんか通じねえもん」
「そうそう、文字読めねえんだよ。漫画しか読めねえの。いっぺん聞いてみたら、その漫画も科白とかト書きが多いと駄目なんだってさ。知能低すぎて、話にもなんないじゃん。ありえねえっつの」
「本が読めないとか、意味判んないよね。じゃあ、あんたら、何してんのって感じ」
「参考書くらいは読めんじゃね?」
「それすら理解出来てないし、マーカーで線引いてるだけの馬鹿」
「ほんと、それ」
「教科書すら理解出来てないから」
「文字も読めないんだから、しょうがないよ。ほっとけば、あんな奴ら。反吐が出る」
「教師も馬鹿ばっか。ほんとに大学出たのかって思っちゃう」
「親もさー、斯う謂うとこに入れとけばいい、みたいな感じで」
 堰が切れたように、皆が口々に云う。大勢から捲し立てられ、ぼくは「そうですね」と呟くことしか出来なかった。
 ひとり、隅の方で立ち尽くしている女の子が居る。ガリガリに痩せて青白く、幽霊のようだ。
「あの子は?」
 誰ともなしにぼくは訊ねた。
「やっと家に帰れたんだけど、相変わらずだねー」
「拒食、拒食。もの喰わねーの。こないだの測定で規定体重に達したから許可が下りたんだけどさー、あれ、絶対不正」
「服になんか仕込んでたんだよねー」
「三十五キロねえって」
 その子は自分を恥じるように部屋の隅に佇み、蔑むような視線を避け、ただひたすら俯いていた。そしてぼくは、何故だかその子のことが気になった。
 皆の視線を浴び、居心地が悪そうに彼女はスリッパを穿いた足をぎこちなく動かし、廊下を歩いていった。
 まるで骨が動いているようだった。
 ——あんなに痩せていても、生きていられるのだ。
 ぼくはぼんやりそう考えた。
「土曜日に来たんだろー。カイザワ、やりにくかったんじゃない」
 そうでもないですよ、ぼくはそう当たり障りなく答えておいた。
「あいつ、やばいよ、マジで。親、半殺しにして、首切って自殺しようとしたらしいもん」
「フツー、首、切らないよねー」
 首を、切った?
 事実だとしたら、それはものすごく勇気のいることだと思った。
 自殺をするのに勇気もへったくれもないだろうが、普通の人間は簡単に死ねる方法を選択する。手首を切るのだって、躊躇い疵を幾つか残し、それでもかすり傷しかつけられずにこう謂った施設に収容される者が多い。
 一番苦しまずに、死後の姿も目を背けるほどではなく死ねるのは、凍死だと謂うことを何かの本で読んだことがあった。
 投身自殺は、頭の方が重いので脳天がぐちゃぐちゃになる。薬物ならばまあマシかも知れないが、致死量に達する薬を手に入れるのは難しい。医者の方も現在では、大量に飲んでも死んだりしない薬しか処方しない。漂白剤や農薬を飲み下すのは、幾ら死ぬ身とは謂え躊躇するだろう。
 自殺をしようとする人間には、一応『美学』がある。やはり、死後も美しいように死にたがるのだ。首を吊って死ぬと頸骨が外れて、ろくろっ首とまではいかないが、通常の状態より長くなり、窒息状態の舌べらは変色してだらりと下がり、失禁し、糞も漏らすそうだ。
 リストカットだって、出血多量になるほどまで自分を疵つけるのには相当の覚悟が要る。瓦斯自殺は肌が桜色になり美しいそうだが、現在使われている瓦斯の殆どは空気より軽く、死ぬ前に警報機が鳴って仕舞う。車の排気ガスで死ぬのは良さそうに思えるが、シートなどに密着した肌が焼け焦げたようになるそうだ。
 科学情報番組のようなものを観た時に知ったのだが、ひとでも動物でも、過密状態では可成りのストレスが掛かるらしい。電車のベンチシートに無作為に座らせると、最初のひとりは一番端に座る。ふたり目はその反対側の端に座る。三人目は、真ん中に座る。
 今の世の中は、精神に負担が掛かるほどに過密なのだ。
 自殺を行う人間は、死なないことを前提にことを起こす。だから殆どが未遂で終わり、死んでしまった場合は「失敗した」のだ。
 皆が云っているカイザワの場合はどうなのだろうか。そう謂えば、彼はタートルネックのセーターを着ていた。
「それ、本当なんですか?」
「うーん。本人から聞いた訳じゃないけど、秋頃に来て、ずっと首の隠れる服着てるもんなあ」
「此処では有名な話だよな」
「うん、首にざっくり疵痕あるらしいし」
 あいつとあんまり親しくならない方がいいよ。
 ひとりの少女がそう云った。
 それは、忠告と謂うより、警告に聞こえた。
 この喧噪は翌日、嘘のように消えた。
 「家」と謂う狭い世間で、仮面のような親の偽の愛情に触れて、狂騒的になっていただけなのである。彼らは、「病気」にどっぷり浸かったジャンキーのようなものだったのだ。

    +

 病院の生活は単調だが健康的ではある。
 六時半、起床。七時より朝食。その後は自由時間。正午に昼食。一日おきに入浴(男の日と、女の日と分かれている)。三時から自由参加のレクリエーション(ピクニックや、遊戯室でのピンポンなど)。
 五時半に夕食。十時の消灯まで棟内は自由に歩き廻れる。談話室(兼食堂)にはテレビがあり、ナースステーションに申し入れればチャンネルを変更することが出来る。
 屋上は洗濯場となっており、三台の洗濯機と物干しがある。第五病棟の殆どは週末に帰宅するので、此処を利用する者は少ない。
 カイザワは帰宅許可が下りていないのか、本人の意思なのかは判らないが、週末も病院に居た。
 彼の周りには誰も居なかった。それは、あの痩せっぽちの少女も同じだった。
 鬱病の人間に顕著なのだが、彼らは夕刻以降に元気になる。消灯時間など、彼らの「元気」のピークにあたる。しかも、ナースステーションで既に薬を飲まされているので、朦朧とし乍ら、それでも談話室に残りたがる者が多く居た。
 吉野と謂う少年は、睡眠導入剤でふらふらになっているにも拘らず、談話室に居たがった。結局、仆れ込むように眠ってしまう彼を三、四人でベッドまで運ぶ。意識の無い人間は、それくらい重い。
 此処の病院食は厭がらせかと思うほど不味いので、残す者が大半だったが、カイザワはすべて黙々と平らげていた。対照的に、やせ細った少女は、箸を手にすることさえしなかった。彼女の名は、仲野めぐみといった。何となく皮肉な名前だと思った。
 彼女は誰からも相手にされていなかった。声を掛ける者は、ひとりも居ない。
「お腹、空かないの」
 或る時、彼女に訊ねてみた。
 彼女はびくっと肩を縮こまらせ、上目遣いでぼくの方を見遣った。
「食べないと仆れちゃうよ」
 彼女は俯いて、手のひらを開いたり閉じたりしていた。
「慥かに不味いよね、此処の食事」
 ぼくは努めてさりげない調子で言葉を継いだ。
「そうじゃないんです」
 消え入りそうな声が聞こえた。
「太るから厭なの?」
 こっくりと頷く彼女に、
「そんなガリガリじゃ、可愛くないよ。もう少し肉があった方がいいと思うけどなあ」
 そう云ってみた。
「……痩せていないと、駄目なんです」
「なんで?」
「苛められるから」
 そんなことないよ、とは云えなかった。
 理不尽なことで苛めは発生する。ひとりのつまらない苛立ちの捌け口にされると、もう、止まらなくなる。ひとりきりでは攻撃しないが、衆を頼むと常識では考えられないようなことをやってのける。斯う謂う感情は、大人には理解出来ないらしい。
 便所に閉じ込めて頭の上から汚水を浴びせかけるなど、序の口だ。体を数人で拘束して、口の中に糞便や動物の屍骸を突っ込んだり、裸にして陰毛を剃り上げ、髪の毛をずたずたに切って、校門に張りつけにした揚げ句、「ぼくをいじめてください」と、稚拙な入れ墨を彫りつける。
 女の子などは、気に入らない相手を仲間の男数人に強姦(この場合は輪姦と云うのだろうか)させる。そうした場合、酷い時にはとんでもないものを挿入されて、妊娠出来ない体になってしまう場合もあるという。
 大人だったら完全に刑務所行きのことを、平気な顔をしてやってのけるのだ。子供は己れの弱さと法の甘さを逆手に取って、残虐非道なことを平気でやる。
「ぼくはさ、志望校に落ちたんだ。で、馬鹿みたいに思えるかも知れないけど、学校に行く気がしなくなってさぼりはじめたんだよ。きっかけは些細なことでね。クラスの奴らと話が合わないとか、そんなことだった。でも、だんだん厭になってきちゃったんだ。本当に、馬鹿みたいだ」
 そうぼくが云ったら、彼女は「馬鹿みたいじゃないです」と、小さい声で呟いた。

    +

「あの子には近づかない方がいい」
 家に居る時は見もしなかった午間のテレビ番組をぼんやり眺めていたら、カイザワがそう云い乍ら向かいの椅子に腰掛けた。
「あの子って?」
「拒食症の子だよ。十五才くらいの筈だ」
 どうして、と訊ねたら、
「病、膏肓に入る、と謂うやつだな。首まで病気に浸かって治す気がない。あの子にとっては此処に居ることが救いであり、厭な云い方になるが、此処に居るのが楽なんだよ。それに、関わった相手まで引きずり込むタイプだ」
 彼はテレビの方を見ないようにしてか、窓の外を眺め乍らそう云った。少し観察すれば判ることなのだけれども、彼はテレビが好きではないようだった。だったら談話室へ来なければいいように思うのだが、一日中病室のベッドの上では幾ら何でも辛いものがあるのだろう。
 彼は寒々とした窓外に目を遣ったまま言葉を継いだ。
「他人を拒絶する振りをして、他人の愛情が慾しくて仕方ないんだ。だから傍目を誘うようなことをする。あの子が吐いている気配は此処からでも判るだろ。わざとなんだ。構って慾しいんだよ。矛盾した感情を持て余しているんだ」
「みんな、多かれ少なかれそうなんじゃないですか」
 彼はその問いには答えず、自分の首を手刀でとんとんと叩いた。
「噂話は耳に入っただろう」
 ええ、まあ、と、ぼくは言葉を濁した。
「噂なんて謂うのは正確じゃない」
 タートルネックのセーターの首許を彼はぐいっと引き降ろした。細く白い首筋には疵痕などなかった。
「嘘だって、どうして云わないんですか」
 無意味だからだよ、と彼は云った。
「ひとの苦しみは、此処では娯楽だ。愉しんでいるところに水を差すのは無粋だろ」
 自殺未遂したのは慥かだしな、とセーターの首許を整え乍ら彼は云った。
 部屋に這入って着替えれば判るだろうが、ベッド周りにはカーテンが張り巡らされている。彼はそれをいつも閉め切っていた。噂を遮るものはない訳だ。
 彼はいきなり立ち上がって、散歩でもしないか、とぼくに云った。
 ナースステーションにある帳面に名前と時間を記して、ぼくらは出掛けた。裏の沼には行ったか、と訊ねられ、此処へ来た日に行きました、と答えた。臭かっただろう、そう云って、彼は少しだけ笑った。
「栄養分が必要以上に豊富なんだ。余分な微生物が死んで、腐って臭う」
 彼は、沼のある側とは反対方向、一般病棟の脇を通って道路へ出た。
「バス停がこんな近くにある。やろうと思えばいつだって此処を抜け出すことは出来るんだ。だが、誰もそうしない。此処の暮らしが楽だからだ。何もしなくていい。何も強制されない。普通の精神科の施設がどうなのかは知らないが、此処は患者にストレスを与えないことで治療しようとしている。だから世間と対応出来ないまま、外に放り出される」
 出戻りが多いんだよ此処は、とカイザワは俯いて歩き乍ら云った。
「此処にはどれくらい入っているんですか」
「半年くらいかな。他の奴らに比べると短い方だ」
 彼に関する噂は殆ど根も葉もないものだと謂うことが判った。親を半殺しにしたのでもなく、首を切って自殺を図ろうとした訳でもない。本当は——
 歩道橋から飛び降りたのだった。
「間が悪いとでも謂うのかな。落ちた時に恰度、おれの背中側、後ろ方向から小型トラックが通り掛かった。幌の上に乗っかって、疵ひとつ負わなかった」
 馬鹿馬鹿しいだろ、と彼は云った。
「そんなことは……。偶然だっただけで、地面に落ちていたら確実に死んでいたと思います」
 だろうな、と彼は無表情に答えた。
「だけど、死ななかった。今となっては笑い話にすらならない」
 死ぬ時期じゃなかったんですよ、とぼくが云ったら、彼は口の端だけで笑った。
 バス停からの道は林道と謂う感じで、後ろ側に病院があると知らなければ別荘地のようだった。それを云うと、戦後、此処は進駐軍の保養地だったのだと彼が教えてくれた。
 ぼくらが収容されているところも、老朽化した建物を取り壊し、その跡に病院が建てられたのだそうだ。それでも建物は今となっては古びていて、都会のビル街を見慣れたぼくには現実感がなかった。
 しかし、過去に起きた幾つかの大震災に依り制定された基準に則って造られた建物は、百年経ってもびくともしない。外装や内装を変えれば、新品同様になる。此処は病院だけあって、内装はきれいにしてあった。
 ぼくらの世界は昔のひとからすれば空想科学小説のような世界になってしまっており、凡ての情報はインターネットでやり取りされ、発信し、得ることが出来る。考えてみれば、実に無機的な世界になってしまっているのだ。
 インターネットで検索してみると、そう謂った世界と真逆の、古くさい紙製品に拘ったものを扱うサイトがあったりする。そう謂う処は女の子に人気があるようだった。紙は一時期廃れたが、世界でもトップクラスである日本の巨大複合企業が、樹木を使わずあらゆる材質の紙を生産する技術を開発したことにより、安価に手に入るようになった。
 ぼくは特にこれと謂って興味のあるものがなかった。流行の音楽にも、服装や文化にも。本はよく読んだが、その「本」自体がなくなりかけていた。紙があっても、昔乍らの形態で本を読む習慣は復活しなかったのだ。
 なんとも味気ない世界だとぼくは思った。
 昔は受験勉強の為に図書館へ行ったらしいが、その「図書館」が既に存在しない。ひととの関わりも、昔とは随分違って来ているのは、馬鹿でもない限り判ることだった。友人同士がふたり卓子に向かいあって座り、それぞれに携帯電話を弄って目の前の人間とはひとことも喋らないのだ。
 一緒に居る意味がない。
 そのことをカイザワに云うと、
「時代は変化する。それについてゆけない奴は、精神的にも肉体的にも脱落するしかない。味気ないとか云っていられるほど生易しいものじゃないんだ」
 彼はそう、呟くように答えた。

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 カイザワは夏に退院した。
 暑くなっても、汗疹が出来たからと云って包帯を首に巻いていた。その行為が一体何を意味するのかが、ぼくには理解出来なかった。一度、何故誤解を解こうとせずに、わざとそれを肯定するようなことをするのか訊ねてみたが、彼は口の端で笑うだけだった。
 そして、退院した蒸し暑い夏の日、皆が噂したように頸動脈を切り裂いて、彼は自殺した。
 まるで、リクエストに応えるかのように。
 彼と過ごした数ヶ月を考えてみた。
 カイザワは他人に誤解されようと、理解されようとされまいと、気にもしていなかった。
 何が彼をそこまで他人を排するようにしてしまったのかは、今では知る由もない。ぼくが知る限り、彼は他人に興味がないように見えて、実は鋭い視線で観察していた。生きることに対して興味が尽き果てた人間は、そんな風に他人を視ない。
 彼は、此処で噂されていたことに応えるように首を切ったとしか思えなかった。彼にとって、生きることは「道化ること」でしかなかったのだろうか。
 気怠いような視線で世の中を視て、いい加減な噂を否定せず、それに応えるかのように死んでしまった。何が彼をそうさせたのか、どうしてそこまで彼は行ってしまったのか、もう、誰にも問うことは出来ない。
 彼はまだ、十七才だった。
 まだ、十七才だったのだ。

(2015年、某月)






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