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猫日誌 其の柒

 二年前に実家を譲り受け移り住んでから、妻と能く散歩するようになった。アパート暮らしの時はふたりで出掛けると謂ったら買い物くらいで、それも車が多かった。彼女もわたしと同じ職場で働いていおり、忙しくしていたので致し方ない。
 前の居住地は近隣の治安が悪い、と謂う評判だったが、住んでみるとそんなことはなかった。
 まあ、少し離れた東一区は、洒落にならないほど危険な処ではあったが。なにしろ知人がやっているバンドのボーカリストが、午日中に暴漢に襲われたくらいである。そのボーカリストは男なのだが、何う見ても軟弱で、襲ったのは、その近辺をうろついていた「バンド狩り」と称される若者たちだった。
 恐ろしい話である。わたしもいい齢をしてバンド活動をしているが、そこで暮らしていた頃にそのような危険な目に遭ったことはなかった。
 妻の清世はそうでもなかったが、わたしはそのアパートに住んでいた頃、近所の子供たちと能く遊んだ。下町の風情が色濃く残る処で、子供たちも素朴な遊びに興じていた。わたしが教える遊びも昔ながらのものばかりで、彼らには新鮮に思えたのか喜んでいた。
 此方に来てから子供の友達は居なくなったが、引っ越す時に彼らは泣いてまで悲しんだ。手に手に可愛らしい贈りものを持って、いつでも遊びにきてくれ、忘れないでくれと抱きついてきた。そこを離れることになんの未練もなかったが、こればかりは少々胸が締めつけられた。
 わたしの実家はごく普通の住宅地に建っている。普通でないのはその家の外観だった。別に米軍基地の傍に建っていたならば特に珍しくもなかったであろう。そう、造りがアメリカ風なのである。完璧に。そもそも平屋と謂うのが既に目立っていた。
 白いペンキ塗りの壁に白い木製の柵。裏庭にあるポーチには馬鹿げたブランコまである。とは云え、最近はそれに腰掛けてぼんやりすることが多くなったのだが。幼い頃は何かと反抗心を持ち、必要以上に否定的な見方をしていたのだろう。
 幼いと謂っても、大学を卒業するまで実家に住んで居たのだが。
 で、清世とそのなんの変哲もない住宅街をぶらぶらと歩く訳である。犬でも連れていればそれなりに見えるだろうが、うちには猫しか居ない。清世はどうか知らぬが、わたしは犬を扱えるほどまめな性格ではないのだ。猫は自由気ままに生きている。干渉せぬ方が良いくらいなのだ。
 そもそも、猫に紐をつけて歩く気にはなれない。そもそも猫たちには首輪をつけていないのだ。最初に飼ったコロにつけようとしたら厭がったので、それ以降の猫にもしていない。そんなものをつけなくても家から出さないので、まったく支障はないのだ。
 そうやって目的もなく中年男女がふたりで歩くのはもの珍しく思われるのか、知った顔に出会うと必ず声を掛けられ立ち話しをする羽目になる。わたしは挨拶くらいしかしないが、清世はにこやかに応対している。わたしも長年接客業に携わっており、現在の勤務先もひとと接することが多いので、そう謂った社交が出来ない訳ではない。
 しかし、妻に任せる。金ももらえんのに愛想なぞ振りまけるか。スマイル0円とか云っている場合ではない。そんなものは賃金が生じなければ、見ず知らずの業務以外の相手に振り撒けるか。実質ゼロ円の笑顔などない。あるかも知れないが、それは自分を良く見せようと浮かべる笑顔なのだから、損得勘定の上で作っているものである。
 しかし、思わず浮かぶ笑みと謂うのはある。
 それは好ましい出来事に遭遇した時や、好ましく思うものに対する時に浮かぶ。そうですね、わたしの場合、妻と猫にでしょうか。
 おほほほほ。いいではないか。和やかではないか。麗しいではないか。——狙ってやっている訳ではない。
 まあ、そのようにしてふたりで散歩をする。目的地は最寄りの児童公園なので、歩いて五分ほどで着いてしまう。その短い道のりでどのような天の配剤であろうか、清世が猫を見つけた。彼女は猫探知機を体内に蔵してでもいるのかも知れない。
 電信柱の陰に、その仔猫は行き仆れていた。
 彼女が近寄って様子を見ると、まだ息はあって、やけに肥えているという。野良で太った猫、しかも仔猫。どんな暮らしをしているのだろうか。仆れたのも食あたりなのではなかろうか。
「まだ生きているのでなんとかしなければならないですね」
「なんとかって」
「お医者さんに連れて行かないといけません」
 なんとお優しいことでしょう。このような妻を持ったわたしを、すべての男が羨むであろう。羨ましいですか? なんなら譲りましょうか。
 仔猫はハンカチに余裕で乗るほどの大きさで、彼女は持参のそれにくるんで抱き、わたしたちは廻れ右をして自宅へ戻った。が、家の裡に入れる訳にはいかない。どんな病気を持っているか判らないのだ。
 で、そのまま車に乗せて獣医へ向かった。

「木下さん。あなたも、随分もの好きですねえ」
「ぼくがもの好きなんじゃなくて、このひとがそうなんですよ」
 妻を顎で刺すと、
「奥さん、タンゲ君の時は困っていませんでしたか」
 獣医は呆れたようにそう云った。
「そうなんですけどね、引っ越したんで気が大きくなってるんじゃないですか」
「実家の方は広いんですか」
「だだっ広い訳じゃないですけど、アパートのようなことはないです」
 仔猫は診察の結果、喰い過ぎであることが判明した。太り過ぎているので食事に気をつけてくれとまで云われた。本当に野良猫なのだろうか。
 診察券を作るのに名前を決めてくれと云われ(これまで名前が未定の猫は、「木下ねこ」としていた)、丸々太っていることから「マル」にした。痩せたとしてもマル。祖父はわたしの名前が覚えられなくて、適当に数字をつけるか、「おい」と呼んだ。おいと呼んで、「孫でも甥」と、自分で自分に受けていた。
 いや、こんなに小さいのに肥満体では良くないので、ちゃんと減量させねばなるまい。痩せたら「こけ」にでもすればいい(痩けるってことね)。女の子なのでそれは可哀想か。
 病気は持っていなかったので家の猫に対面させた。喰い過ぎでぶっ仆れていたくらいなので呑気者らしく、近い処から手当り次第に挨拶していた。
「こんにちは、よろしくです。わたしの名前はなんだろう」
 本人にまだ呼び掛けていなかった。まあ、いいか。
 猫たちは代わるがわる鼻をつけて挨拶を返し、受け入れは上手く行ったようである。いい加減、全員落ち着いてきていた。
 しかし、賑やかなものである。人間はふたりしか居ないが、猫はこれで五匹だ。多いんとちゃいまっか?
 まあ、いい。人間ふたりで無聊をかこつよりは充実しているであろう。物事は良い方へ考えないといけない。悪く考えると際限なく何処までも悪い方へ想像が進むが、善いように考えるのは頭をパーにする必要がある。
 あなたはもともとそうなんじゃないのですか、だって?
 誰だ、そんな失礼なことを云うのは。……クツシタでした。足許に居たのね。
「清世、五人も面倒見れるのか」
「大丈夫ですよ、家に居るだけなんですから」
「そうだけど、手間が掛かるぞ」
「四匹も五匹も変わらないと思います」
「おまえ、いつからそんな猫好きになったんだ」
「木下さんだって好きじゃないですか」
「まあ、好きだけど」
「子供が居ないんですから、いいんじゃないですか」
 そう謂う考え方もある。人間の子供と違って学校へやる必要がないので、その分安上がりだ。保険が効かないので金が掛かると思っていたが、子供を持つ友人に話を聞いたら「猫と一緒にするな」と、性向の温順しい者までが声を上げて反論した。
 動物の医療費は高いと思っていたが、人間の子供に比べたら微々たるものらしい。考えを改めよう。
 押し入れが一間半ある部屋が猫の部屋になっている。そこはわたしが此処に暮らしていた際、寝起きをしていた場所である。わたしが実家を離れて十年もした頃には物置にされていた。それまで現状を保ってくれていた両親に頭が下がる思いである。
 その部屋は真ん中辺りに段ボール箱が積まれ、その周囲が廊下のようになっており、そこから押し入れのものを取り出したり隣の部屋や庭に行くようにしてあった。現在は猫の寝床と便所が置いてある。
 そこには必要なものだけが置かれ、それはつまり猫のもので、その様にしたのは妻の清世で、居住空間のすべてを猫にとって快適にしてくれている。感謝感激、雨霰である。しかし、難有く思っているわたしですらそれを蔑ろしてしまうのだから、獣である猫が彼女を慮る筈もない。
 置いてあるものはすべて蹴仆し、思いに叶うものなら体を擦りつけ寝床にし、それが洋服ならば最悪の場合、再起不能になる。やって慾しくないことを悉くやるのが猫という生きものなのだ。
 彼らが足を踏み入れないのは洗面所と風呂場のみで、締めてあっても、勝手に戸を開けて這入り込む。猫の能力を侮ってはいけない。引き戸だけでなく、ノブのついた開き戸でも開けてしまう。レバーの形をしているので、飛びついて押し下げ開けてしまうのだ。
 凄いですねー、恐いですねー。それでは、さいなら、さいなら、さいなら。

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