見出し画像

人物裏話——定食屋のおばちゃん篇。

 車折、二十九才の時。

「禎君、新谷さんとこの幹子ちゃんと結婚したんだって?」
「ええ、まあ」
「この指輪、プラチナ?」
「さあ、そういうことは判りませんね」
「ちょっと見せて。ああ、プラチナじゃない」
「そんなことが判るんですか」
「裏に刻印されてる」
「ああ、ほんとだ。知らなかったな」
「しかし指輪の似合わない手ねえ。薄汚れてて」
「機械油はなかなか落ちないんですよ」
「ベンジンかなんかで擦ったら」
「手が襤褸襤褸になっちゃうじゃないですか」
「大丈夫でしょ、この手なら」
「ひとごとだと思って」
「頑丈そうな手じゃない。此処でよく食事してたけど、なーんにも話してなかったわねえ」
「一応、喋ってましたよ。それに食事中はそんなに会話なんかしないものじゃないんですか」
「食事中に会話しなくていつすんのよ。夫婦なんてご飯食べてる時しか喋んないわよ」
「そういうもんですか、うちは飯喰ってる時は黙ってましたからね」
「お母さんも?」
「母親は小さい頃に死んだんです」
「苦労したのねえ」
「苦労はしてませんよ」
「だから確乎りしてるのねえ。新谷さんも安心だわ」
「注文聞いてくれませんか」
「あー、ごめんねえ。なんにする?」
「生姜焼き定食」


 棠野、三十二才の時。

「焼き魚定食って、今日は何」
「今日は鯖」
「じゃあそれにしようかな」
「あら、結婚したの」
「ああ、したよ」
「いつ?」
「先月」
「幾つだっけ」
「三十二」
「まー、そんな年だったの。大学生のアルバイトかと思ってた」
「そりゃ云いすぎだろ。三十男捉まえて」
「若い顔してるじゃない、結婚する年には見えないわ」
「そうか? バンドやってるからかな」
「バンドなんかやってるの。不良ねえ」
「不良って、三十過ぎて不良もないだろ」
「だから三十には見えないって。奥さんは幾つなの」
「二十三」
「えー、わっかいのねえ。今時二十三で結婚する娘って珍しいんじゃない?」
「だろうね。みんな晩婚だから」
「話、合うの?」
「合わせてる」
「疲れない?」
「別に。若い子の考えることって面白いよ」
「あんただって若いじゃない」
「おばさんよりはね」
「可愛くないこと云うわねー。ご飯に山葵仕込んでやろうかな」
「そのご飯を早く持って来てよ」
「あら、忘れてた」


 車折、三十才の時。

「子供が出来たんだって?」
「耳聡いな、誰に聞いたの」
「新谷さんのご主人が嬉しそうに話してたわよ」
「お義父さんも此処に来るんですか」
「うちのとよく呑むのよ」
「ああ、そうか」
「男の子なんだって?」
「ええ」
「可愛いでしょ」
「そうですね、まだ赤ん坊ですけど」
「男の子なんて小さいうちだけよ、可愛いのは」
「そうでしょうね」
「女の子作りなさい、女の子」
「そんなものは狙って作れるもんじゃないでしょう」
「出来るまで頑張るのよ、若いんだから」
「そんなに大勢要りませんよ」
「そりゃそうよね」


 棠野、三十三才の時。

「子供はまだ?」
「それが出来ちゃったんだよねえ」
「出来ちゃったって、やることやってりゃ出来るでしょうよ」
「そりゃそうなんだけどさ、いきなりというか、なんというか」
「覚悟が出来てなかった」
「そう、それ」
「情けない。で、今、何ヶ月なの」
「二ヶ月とちょっと」
「ちゃんと労ってあげてる?」
「それはね。友達に子供がふたり居るから、その嫁さんにいろいろ訊ねて」
「初産だから大事にしてあげなさいよ」
「普段から大事にしてるよ」
「子供みたいだから」
「そんなことないよ」
「確乎りしなさいよ、父親になるんだから」
「それ云わないでよー」

 車折に話し掛けているのは、幹子を最初に連れて行った定食屋のかみさん。五十くらい。弁当を買うようになるまでは此処に通い詰めていた。棠野に話し掛けているのは、配達の途中で時々寄る定食屋のおばちゃん。パートで二年目くらいだった為、彼の年を知らなかったのである。棠野は三十二の時点で運送屋には十二年勤めているので、よく知っていれば大学生などと思う訳がない。このおばちゃんが棠野の結婚に気づいたのは、指輪を見たからである。
 ふたりとも食事が運ばれてくるまでスポーツ新聞を読んでいる。おっさんやな。わたしも読むが、スポーツには興味がないので釣りの記事ばかり読んでいる。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?