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夏の風物詩

 夏の風物詩と謂えば花火である。家庭でやるささやかなものであれ、祭りで上げられる大きなものであれ、子供も大人も虚心を忘れて没頭する。そうした事ごとに親しんだことはあまりないが、否定する気は毛頭ない。楽しいことを否定するなど、有りうべからざる心根ではないか。
 楽しいことにも寄りけりであるが、余程の弔事がない限り、花火くらいは認められよう。線香と同じ感覚で、死者を送る手立てとして扱われる場合もある。
 近くの海水浴場で花火大会が行われており、庭に居るとくぐもった低い音が聞こえてくる。うちは平屋なので、花火そのものは見えない。アパートの高い階に住んでいれば見えるのかも知れない。
 アパート暮らしをしていた頃は建物と窓の向きもあり、花火は見えなかった。そもそもこの花火大会は長く行われず、今年になって復活したのだ。子供の頃その花火大会を見に行ったかと云うと、行かなかった。わたしの親はそう謂った行事に関心がなかったのである。おかげでわたしは、近所の子供たちの話題についてゆけなかった。
 ついてゆけずに彼らが話すことをただ聞いていた。
 こんな環境なので、自分のことはあまり話さなくなった。話すようになったのは中学に上がって、音楽という共通の趣味を持った友人が出来てからである。それでも、彼らとわたしの好む音楽にはズレがあったので、やはりあまり話をしなかったように思う。
 音楽に関して能く話すようになったのは、高校に進学してからである。軽音部に入って、そこでも最初は周囲の者らの好みが自分とは違うので殆ど口を利かなかったが、やがてふたりの部員が自分と好むものが似ていることを知り、能く話すようになった。
 苦節十五年。まともに喋ることが出来なかった時期を除くと、十三年ほどか。長かった。やっと話せる、と思って、堰を切ったように喋ったかと謂うと、そうでもなかった。あまりにも長いこと自分について話さなかったので、無口になって仕舞っていたのだ。
 これは親が悪いのではなく、わたしが悪いのであろう。子供の癖に偏屈だったのだ。厭な餓鬼である。
 わたしの話し相手はもっぱら動物であった。恐ろしいことに、無機物にも話し掛けていた。香港映画の『恋する惑星』を観た時、警察官が家の裡の物に話し掛けており、それが滑稽であると謂う描写がされていたので、わたしはおかしな人間だったのかと思い、不愉快な気分になった。映画自体は面白かったが。
 母の実家へ行くと、祖父がいろいろな話を聞かせてくれたけれども、年寄りなだけに午寝をする。そうなると手持ち無沙汰になってひとりで河原に降りてゆき、鮎釣りのひとを眺めたり、庭の昆虫と遊んでいた。その昆虫にもやはり話し掛けていた。
 もしかして、幼い頃のわたしは頭がイカレていたのだろうか。
 母の実家へ行っていた或る時、草むらの中に長いものが横たわっており、それがずるずると動いた。なんだろうと思い引っ張ったら、子供の手には重く、向こうも抵抗した。祖母がわたしの様子に気づき、叫び声をあげて後ろから抱きかかえた。
 長いものは蝮であった。抵抗してくれたおかげで噛まれずに済んだ。その辺りは蛇が多く、蝮も土蛇も青大将もうようよ居たのである。青大将と謂っても田中邦衛ではない。田中邦衛がうようよ居たら、蝮より恐い。
 母の実家の建物は非常に古く、木造だったので隙間もあちこちにあった。風呂もコンロも薪を使い、換気扇など無く、ブリキの煙突がその代わりをしていた。その隙間から、青大将が落ちてきたことがあったそうな。断っておくが、田中邦衛が落ちてきたのではない。
 蛇が苦手な祖母は魂切る悲鳴をあげ、聞きつけた祖父は蜷局を巻いている蛇をそのままの状態で摑み、ビニール袋に入れた後、新聞紙で梱包し、紐で絡げて橋の端(駄洒落ではない)に置いてきた。何故そんなことをしたかと云うと、酔っぱらいがその包みを家に持って帰るのではないかと期待したのである。
 悪質な悪戯である。「いたずら」は悪い戯れと書くが、此処までやったら洒落にならない。
 血筋なのか、わたしもひとに能く悪戯をするが、悪質なことはしない。友人の服に附属する帽子へ塵芥を入れたり、猥褻なものが苦手な職場の先輩の机にヌード写真を置く程度である。
 悪質か?
 兎に角、この田舎の思い出の為に、蛇は夏の風物詩のひとつとなった。幸い、住んでいる処は都会に近いので蛇を見かけることは無い。蛇が嫌いと謂う訳ではないが、毒蛇と拘わりたいとは思わない。毒蝮三太夫なら喜んで受け入れるが。
 夏ももう終わりに近づいたが、齢を喰うと夏など無い方がいいと思う。学生時代は夏休みと謂うものがあるけれども、わたしはそれを若者らしく満喫しなかった。——ような気がする。音楽活動をしていたので、路上で演奏したり部活が主催する舞台に立ったりしても、それ以外はアルバイトばかりしていた。小中学生の頃は普通に宿題をやったりプールへ行ったりしたが、ひとりの時は虫や物に話し掛けるか、音楽を聴くか本を読んでいた。
 陰気くさい餓鬼である。それなのに、周囲からは明るくて馬鹿だと云われた。馬鹿は余計ではなかろうか。しかし、自分でも暗いとは微塵も思わなかったが、若者らしく反抗期になったり悩んだりすることがなかった。やはり馬鹿だったのであろうか。
 同じバンドのメンバーである牧田俊介はわたしに負けず劣らず馬鹿なのだが、ちゃんと反抗期があったらしい。生意気な。反抗するな。もうひとりのメンバー、江木澤閎介は、恐らくその性格からして悩みまくり反抗しまくったであろう。あのおとなしい男がどのように反抗したのか見てみたいものである。
 一升瓶から焼酎をラッパ呑みしてくだを巻き、母親に「糞ババア」などと云っていたら、云われた方ではなくわたしが腰を抜かしたであろう。想像するだけで恐ろしい。
 このように両極端なふたりと、どうした訳か馬が合い、阿呆のように長々とバンド活動をした。なんと五十年以上である。意気投合した時は長いつき合いになるだろうとは思ったが、バンドをここまで蜿々と続けるとは考えもしなかった。音楽から離れることはなかろうが、大学生の頃、既にいつまでもバンドなど続けることはあるまいと思っていた。
 他のふたりが何う思っていたかは訊いていないので判らないが、恐らくわたしとそう変わらない考えを持っていたと思う。素人なのにバンドと謂う形態で五十年も活動するなど、愚の骨頂である。馬鹿には違いなかろうが、それでは人間としてただの碌でなしとしか云いようがない。それを生業としてやっていたなら別だが。
 金にもならないことを蜿々やって来て、ひと前で演奏することは六十五で辞めた。厭になったとか辞めろと云われたのではなく、わたしの目が殆ど見えなくなったからである。今や全盲だ。これも若い頃には想像だにしなかったことである。一分たりとも想像していたなら、もっと早く対処して、今のような事態を避ける手立てが出来た筈だ。
 未来が読み通せないことは、本当に、まったく以って、恐怖の極みである。己れの視界が闇に閉ざされると予め判っていたのなら、その手立てくらい、わたしの稼ぎでもどうにかなった筈だ。
 しかし人生の物事は、大体に於いて後手後手に廻る。それにいちいち角を立てていては、本当の鬼になりかねない。誰しも鬼になりたくはなかろう。鬼は恐ろしい。

 どうもわたしは怖がりのようだ。田中邦衛が怖く、江木澤の反抗が怖く、予測のつかない未来や鬼が怖い。
 恐ろしくないものはなんであろう。
 猫か?
 当たり前だ。家に幾たりも居るものを怖がっていたら生活出来ない。寧ろ愛らしく愛おしく、漢字の意味が重複しすぎて困るほどだ。因みに「重複」はちょうふくと読む。有識者まで「じゅうふく」などと吐かしやがるので、顳顬の血管がぶち切れそうになる。
 年寄りなのだから落ち着かねばならぬ。モノを知らない人間が増えるのは致し方ない。わたしが若い頃でも本を碌に読まず、知識を得ることに重きを置かない癖に、他人を馬鹿にして攻撃する輩が幾らでも居た。
 若い頃はそうした屑どもに腹を立てたが、所詮ひとごとではないか。己れに拘ってこないのであれば、見逃すが吉であろう。束になれば国政をも揺らがす因にもなろうが、ケチをつけたり愚痴を云うだけの輩が、世の中を根底から変えるとも思えない。

 死ぬことは怖くない。ものが見えないことにも慣れた。ならば怖いものは何か。
 と考えて思い当たった。それは気配である。判り切ったものならいいが、なんだか判らないものの気配は怖い。ただ何かがある、誰かが居ると謂うだけの気配には恐怖を感じる。背後に何かの気配がする。それが判らない。振り向いたところで真っ暗なのである。もしかしたら巨大な蛙が居るのかも知れない。
 児雷也か。
 児雷也は「自来也」とも書く。感和亭鬼武の読本、『自来也説話』に出て来る義賊で、その正体は三好家の浪士、尾形周馬寛行であった。みっつの名前があると謂うことは、周馬はミドルネームと謂うやつだろうか。いや、もっと沢山、長ったらしく名前があった輩が居る。織田信長だって正式には織田三郎平朝臣信長と謂うのだ。それではなんと呼べばいいのか判らないではないか。のぶちゃんなどと呼んだら、恐らく首を刎ねられたであろう。
 児雷也は実在するらしいが、尾形周馬寛行という名を知らなかった。わたしは歴史には暗いのだ。おい、知識まで暗いとは何事だ。
 性格も暗けりゃ視界も暗い。この上、知識まで暗いとなったら何うにもならない屑ではないか。生まれてきてはいけなかったのだろうか。しかし、わたしは太宰治とは違うので、そのことについては謝らない。
 生まれたのはわたしの責任ではない。親が好んでしたことだ。ほっとけ。
 それは置いておいて、児雷也は美図垣笑顔(なんと謂う巫山戯た名前なのだろう)などが集まって書いた合本、『児雷也豪傑譚』の中では蝦蟇の妖術を使う忍者なのである。
 この話を読んだことはないが、映画の『豪傑児雷也』や、月岡芳年が描いたものに依ると、この男は蝦蟇の上に乗っている。児雷也が一寸法師ほどでない限り、乗せている蝦蟇はどえらい大きさである。
 それが背後に居たら、と考えれば、誰しも怖いと思って当然ではなかろうか。そもそも背後に巨大な蛙が居ると思う奴など居らぬか。これはわたしが馬鹿だと謂う証拠なのであろうか。牧田に電話で訊いてみようか。ああ、夜に掛けてはいけない。彼には若い(五十半ばだが)恋人が居るのだ。
 元気な爺いである。

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