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君に花束を


 水尾と母

 母が精神的に駄目になってしまった小学四年の終わり頃から、家のことをすべてやるようになった。親父の愛人が家に居たのでそいつがやると云ったのだが、自分たちのことだけをして母とおれには構わないでくれと断った。
 そんな人間に何もして慾しくなかった。
 母は辛うじて身の廻りのことは出来たが、感覚が鈍ってしまっているのか、食事を持っていかなければ腹が減っていることにも気づかない。寝床の脇に盆を置いて体を起こすのを手伝ってやり、白く冷たい手に箸を握らせてやる。少しづつ飯を口に運ぶ姿は、自動人形のように感情がない。旨いかどうか訊ねても、何も云わなかった。
 何故こんなことになってしまったのだろう。
 亭主が愛人を家に連れ込んだからか。そいつがおれに暴力を揮うからだろうか。ならば、あんな男とは別れたらいいのに。あいつには何の価値も権力もない。あいつがふんぞり返っている社長の椅子は、母の父親のものだった。祖父が生きていたなら、こんなことにはならなかったのかも知れない。
 そんなことはどう仕様もならないことだった。
 祖父は死んでしまったし、親父は愛人を連れ込んでいるし、もともと温順しく弱い性格だった母は、もう何もかも放棄してしまった。
 取り残されたおれは、学校から帰ると洗濯物を取り込み、掃除をして、飯の支度をする。そんなことをしていると、厭なことを忘れられた。何かをしていればものをあまり考えなくて済む。
 家事をしていない時は母の傍らで勉強をした。
 時々、国語の教科書を読んで聞かせたりしたが、母の耳には聞こえていないようだった。幼い頃は母がおれに本を読んでくれていたというのに、もう、文字を追うことも出来ない。
 冷たい手を擦っても、温かくならない。本当に生きているのだろうかと思って、何度も胸に耳を当てた。
 生きていない方が良かったのかも知れない。
 母にとってもおれにとっても。
 こうなる前も、母は何もかも傍観していた。おれが殴りつけられていても止めもせず、ただそれを眺めていた。おれも助けを求めたりしなかった。下手なことをして母まで殴られたりしては堪ったものではない。
 父が立ち去ると、やっとおれの傍に来て泣きながら抱き締めた。母をこんな目に遭わせる父親を心の底から憎んだ。殴る蹴るの暴行を加えておきながら、他人に見える処には痕跡が残らないようにする。卑怯者め、殺すことも出来ないのか、と思った。
 殴られても痛みを感じない。殺されるようなことをされても、何も感じないだろう。
 ぼんやりと中空に視線をやったまま何も云わないでいる母を眺めて、その白く細い首を絞めて自分も死んでしまおうか、と思うのだが、そんなことは出来ない。これ以上酷い目に遭わせてどうするのだ。辛さに耐え兼ねて死ぬなら、自分ひとりで死ねばいい。
 このままでも母は何も判らないのだから、以前より不幸ではない筈だ。
 醒めきった目で何を見ているのだろうか。ものを食べて果たして味は判っているのだろうか。風呂や便所に自分で行けなくなってしまったらどうすればいいのだろうか。
 誰も助けてくれない。誰に相談することも出来ない。
 母は美しいひとだった。頼りなく果無げで、ひとりでは何も出来ないように見えた。夫が何を云おうと何をしようと、唯々諾々と従っていた。
 それでも、ふたりで居る時はおれのことを可愛がってくれていた。
 おれの名前をつけたのは母だった。
 健やかに生を司るようにと。


「母親はどうしてるんだよ」
 屋上で今井が云った。
「なんにも出来ないんだよ。親父がそんなことするから狂っちまった」
 彼は、呆然とした顔をした。
 普通の人間には想像もつかないのだろう。息子を肋が折れるほど蹴り飛ばして、それをただ見ていてゆっくり気が違っていった母親のことなど。
「おれに何かしてやれることはないか」
「ないよ」
 他人に出来ることなどなかった。ひとに何か期待をしたことはない。そんなことは無駄だった。
 親父の腐った人間性が判っていた祖父も、何も出来なかったのだ。この家庭は、誰も手出しが出来ないところまで行って仕舞っていた。
 今井は体育の時間にいつも時間をずらして着替えるおれの、痣だらけの体を見てしまい、気になったのか屋上に呼び出して真相を訊ねてきた。嘘をついても仕方がないので、父親にやられたと云ったらこういう会話になった。
 単なる好奇心なのかなんなのか判らなかったが、ついに彼はおれを抱き締めて泣き出してしまった。そんなことをされたのははじめてだったので、正直戸惑った。
「なんでひとの為にそんなに泣くんだよ」
「自分の為だったら泣いたりしねえよ」
「変な奴だな」
 殴られたら殴り返せよ、男なんだから、と云って、おれの腕を持ち上げ、「こんな細っこくちゃ無理か」と彼は苦笑いした。
 それから今井はよく話しかけてきた。ずっと親しい人間など居なかったが、これが友達というものなのだろうか。よく判らなかったので訊いてみたら、
「変なこと訊いてくるなあ。友達に決まってるじゃないか。それとも迷惑なのか」
 と云った。そういう相手が居なかったからと云ったら、なんで? と不思議そうな顔をした。
「まあ、おまえは見るからに取っつき難そうだし、無口だから親しくしてくる奴が居なかったのも無理ないかな」
 自分を取っつき難いとは思っていなかったが、無口なのは慥かだった。ひとに自分の気持ちを伝えようという気がなかったからだ。父親にそんなことをしようと思ったことなどないし、幼い頃から母に対して出来るだけ負担をかけないようにしていた。そのうち、殆ど何も云わなくなった。
 今となっては、他人にどうやって話していいのか判らなくなっていた。
 それでも今井はおれにあれこれと喋ってくる。それにただ頷くだけだったが、少しづつ此方からも話しかけたりするようになった。彼が冗談を云った時に笑ったら、彼は驚いたような顔をした。
「おまえ、笑うのか」
「そりゃ笑うよ」
「全然表情が変わんないから、顔の筋肉がどうにかなってるんじゃないかと思ってた」
「ひとを病気みたいに云うなよ」
 そう云ったら、彼は大笑いしておれの肩をばんばん叩いた。
 おれが相当頼りなく思えるらしく、彼はずっと保護者のようにしていた。いつも此方のことを心配して、泣いたり怒ったりした。不思議な感覚だった。それまでおれのことを気にかける者はひとりも居なかったのだ。
 まともだった頃の母以外は。
 他人の家に行ったことなどなかったが、彼の家で勉強したりした。父親も母親も気さくな優しいひとで、これが普通の家庭なのかと思ったものである。これを家庭というのなら、おれの暮らす場所は「家庭」ではないだろう。
 彼の母親を手伝って料理をすると、息子に向かって、
「数見、よく見ておきなさいよ、ひとりで暮らしたりするようになったらこういうこともやらなきゃいけないんだからね」
 と云っていた。今井は家事を殆どやったことがなく、部屋も雑然としていた。きれいに片づけろよ、と云ったら、男の部屋なんてみんなこんな風だよと返してきた。他人の部屋など見たことがないので、判らなかったのである。
 彼がうちに来た時、母の部屋に通したのだが、今井が寝床の脇に座って「こんにちは」と云っても無反応だった。彼が母の手を取り、ぼくのことが判りませんか、と云ってもそちらに顔を向けることもしなかった。今井は困惑した顔をして此方を見遣り、悲嘆の面持ちで項垂れた。
 如何にかすることは出来ないのか、精神病院に連れて行ったらいいじゃないか、と彼は云った。そんなことを親父が許す訳がない。世間体の悪いことを何より恐れる人間である。妻が精神病になったことを知られるくらいなら、このまま生殺しにして幽閉することを選ぶだろう。
 おれには何もしてやることが出来ないのかと、今井は悔しそうに呟いた。もう充分支えてもらっているよ、と云ったら、「何もしてねえよ」とそっぽを向いた。彼のお陰で少しではあるが、生きる気力が湧いてきたのだ。本当に感謝している。


 今井の父親は休みの日になると、時々車であちこち連れて行ってくれた。遠い処へは行かなかったが、海や川などへ釣りに行ったこともあった。そんな処へ行ったことがなかったので嬉しかった。そもそも、車に乗ったこともなかったのである。
「水尾君、車に乗ったことがなかったの」
「はい」
「慥かお父さんは社長さんだったよね、忙しいからかな」
 おれは曖昧に返事をしていた。隣に座った今井が申し訳ないような顔をしておれの手を握った。その手をぽんぽんと叩いて彼を見遣ったら、ほっとした様子でおれの頭を撫でた。そのままずっとおれの髪を弄んでいた。これは今井の癖なのかも知れない。
 いつでもばさばさに自分で切ったおれの髪を弄り廻していた。
 幼い頃、台所で新聞紙を敷いて母が髪を切ってくれていた。その時、彼と同じように母もおれの頭を撫でて、きれいな髪ね、切っちゃうの、勿体ないわね、と云っていた。もう母は、そんなことは出来ない。おれのことを見ることすらしない。
 砂浜で靴を脱いで、裸足のまま波打ち際を今井と肩を並べて歩いた。じっと立っていると、波が足許に押し寄せてきて引いてゆく時、砂も一緒に流れるのが不思議な感覚だった。穴から這い出す小さな蟹が不気味に思えたので飛び退いたら、彼が心配そうに挟まれたのか、と訊いてきた。
「違う、足が多いし動き方が気味悪かったから驚いただけだよ」
 そう云ったら、彼はさも可笑しそうに笑った。
「なんだ、蟹を見たことねえのかよ」
「食べるのは見たことあるけど、こんな小さいのは見たことないし、動くところもはじめて見たんだよ」
 こんなの蜘蛛と変わらねえじゃん、と一匹摘まみ上げおれの目の前に翳した。腹の方から見ると余計グロテスクで、目を瞑って顔を逸らしたら、そんなに嫌いなのか、と云って蟹を砂浜に戻した。
 蟹は暫くじっとしていたが、やがて横にちょこちょこ歩いて穴に潜っていった。それを恐るおそる見ているおれに今井は、
「ほら見ろ、穴に這入ってった。もうおまえに痛いことしたりしねえよ。平気だろ」
 そう云って、おれの頭を撫でた。同級生なのに子供扱いをしやがって、と思ったが、彼の穏やかな笑顔を見て、突っ張らかっている自分の感情が溶解していくのが判った。自分でも驚くほどに、頑なな感情が解けていく。それは魔法のような笑顔だった。
 堤防の脇でバーベキューをした。今井は父親を手伝って炭を熾したりしていた。そういうことは出来るらしい。野菜を切ったりするのはおれと彼の母親の役目だった。野外で何かをすることはそれまでなかったので、本当に愉しかった。そんなおれを見て、彼の母親が「水尾君、意外とよく笑うのねえ」と云った。
「こいつ、結構笑うよ。冗談も云うし」
 今井がそう云うと、中学生なんだからなんでも面白く思えるもんだよ、と父親が笑って云った。そうやって愉しく過ごさせてもらって家に帰ると、母に今日あったことを報告する。何処へ行ったか、何をしたか、何を見たかをこと細かく伝えるのだが、それは耳に届かないようだった。
 中学三年になった辺りで父親の暴力はやんだ。恐らく、おれの背丈が自分を越したからだろう。別にあいつより上背があったところで殴り返す気はなかったし、抵抗するつもりもなかった。
 ずっと体育の時間は皆が居ない時に着替えていたのだが、痣が消えたら普通に時間通り更衣室へ行った。当然それまでの傷跡はあるが、昨日やられましたと謂うような生々しいものでなければいいのではないかと判断した。後で考えてみると、そこらじゅう痣があるのは不審極まりなかっただろう。しかし誰もそのことについて言及しなかった。
 おれが更衣室で着替えているのが物珍しいらしく注目されたが、気にせず服を脱いだら、隣の奴が「おまえ、すんげえ細いな」と声を掛けてきた。その隣の男も此方を覗き込んで、ほんとだ、と云っていた。授業が終わって再び更衣室へ行くと、そのふたりが面白がっておれの体重と身長を測った。
 一七二センチで四十七キロだった。
「細すぎるだろ、ちゃんと喰ってるのか?」
「食べてるよ、自分で作って」
「自分で? お母さん、居ないのか」
「病気で家事が出来ないんだよ」
 ふたりは、そうなのか、と呟くように云って、それ以上は何も訊ねてこなかった。
 友人と呼べるほどの存在は今井以外居なかったが、以前のように無視されるようなことはなくなり、気さくに皆話し掛けてきた。割と成績が良かったので、勉強のことを質問してくる者が多かった。
 今井は理数系が得意だったが、それ以外の科目は苦手なようで、おれと正反対だった。なので、ふたりでよく勉強して判らないことを教え合った。お陰で苦戦してた理数系の教科の成績が上がった。彼の方は文系の成績が上がり、同じ高校に進学することが出来た。
 卒業式の日、彼と一緒に自宅へ戻った。
 母に卒業証書を見せると、はじめて反応を示した。おれが渡した証書を手にして、文字をなぞるように指を動かした。
 その様子を見て、思わず母を抱き締めた。力なく体を此方に預ける母を、腕に力を込めていつまでも抱き締めていた。何も考えられなかった。ただ、母の匂いと息遣いが凄まじいまでの勢いでおれの感覚を圧迫してきた。
 このひとは、ははおやなのだ。でもしかし、いまはなにもできないでくのぼうだ。おれのこともわからない、ははおやともいえないそんざいだ。このひとはおれのことをどうおもっているのだろう。じぶんのことをどうおもっているのだろう。おやじのことをどうおもっているのだろう。これからどうなるのか、わかってるのだろうか。
 めのまえのおれを、こどもとにんしきしているのだろうか。そのこどもがくるしんでいてもなお、ぼうようとしているのか。かんかくをかなたへちらし、それでらくになって、いいきなものだとおもうけれど、それでもこのおんなはおれのことををきっと、あいしている。
 その感覚に窒息しそうになっていたら、今井が後ろから抱き竦めてきた。
 おれ越しに母の背中を擦っていた。良かったな、と云って涙を流しているようだった。熱い液体が服を伝って染み込んできた。母の背中に廻した彼の手に触れたら、ぎゅっと握りしめた。
 力強くて温かい手だった。
 これ以降、母が何かに反応することはもうなかった。今井がうちに来たのもこれが最後だった。

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