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通勤と儀礼

このnoteはプロ奢ラレヤーの有料マガジン購読者限定のオンラインサロン内の #儀礼研究所 で行われている儀礼論の講義のレポートである。

名前:aki
日付:2020/07/09

概要と目的

このレポートはエミール・デュルケームの「宗教生活の基本形態」を読んで身近な儀礼について考察したレポートである。本はこちらです。(まだ全部読めてません…)

このレポートでは、私が毎日行なっていた通勤を儀礼的な観点で考察し、通勤に儀礼は存在するのか?それはどのような儀礼か?その儀礼は継続した方が良いのか?それぞれまとめて結論としたい。

考察対象

通勤に儀礼が存在するのではないか?と考えた理由は、私が電車通勤をしていた際にデュルケームの言う儀礼との類似点を発見したからである。通勤は日常的に行われており非日常ではないため儀礼とは言えないのではないか?と反論されるかもしれませんが、あえて類似点を考察していきます。考察対象は、通勤(通学)時の乗客とその乗客を取り巻く環境とします。

調査とその結果

実際に電車通勤を行わず、4ヶ月間リモート勤務を行い。電車通勤以前と電車通勤以後の変化を以下に箇条書きにしてみます。

・電車に乗る機会の減少(習慣の変化)
・ストレス減少(心理的変化)
・運動不足(肉体的変化)
・通勤時間と残業時間0(帰属意識の変化)

考察

まず、電車に乗る機会の減少が一番の変化だった。月に20往復40回がほぼ0回になり、1ヶ月ほぼ電車に乗らない時期もあった。次にストレスの減少で顔色が良くなり抜け毛が減った。(※家族談)リモートワーク前は土気色だった顔が少し人間っぽい顔色に近づいたらしい。確かに家族との時間が増えた事で健康になったように思う。唯一のデメリットは運動不足だが、これは家事を手伝ったり散歩したりで克服している。通勤で体力消耗してたんだなと思った。(1日の平均歩数が6〜7割減少)

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そして、一番変わったのは帰属意識だった。通勤分の毎月60時間が私に返却された。残業もほとんどやらなくなった。学校でも職場でも何でも良いが、通うという行為は連帯感を作り出し、私たちの組織という見えない一体感を生み出していたのだと実感した。

今まで日本でリモートワークが広まらなかったのは、通勤や通学による連帯感が組織を構築する上で都合が良かったからではないだろうか。今回は新型コロナウイルスという極めて外的な要因によって、通勤という行為の必然性が失われた。コロナがなければリモートワークへの移行はこれほど大規模には進まなかっただろう。

では、コロナ以前に通勤通学という儀礼を破るとどうなっていたのだろうか?出社拒否を続ければ休職、下手したら退社に追い込まれるかもしれない。まだ、組織から排除されるなら良いけれど、通勤通学の電車へ飛び込んでしまう事もあるかもしれない。これは現代の生贄だろうか?

私は何度か人身事故の電車に乗り合わせた事がある。そのうち2回は先頭車両で、不気味な音を立てて電車が急停止した後の車内の出来事を良く覚えている。電車が止まると車内がざわつきイライラが広まっていく。ある人は会社に遅れると電話を入れる。別の人は迷惑だと怒る。また別の人は学校をサボるつもりだと友達と話す。わざとため息をついたり舌打ちをする人が多かった。

話が脱線したが、通勤通学という儀礼には、それぞれの会社、学校の集団(トーテム)を持った人々が乗り込み、人身事故や悪天候、痴漢行為などで電車が停まった時に集合的沸騰が起こるのではないだろうか。規則性のある儀礼に不規則に訪れるアクシデントによって人は沸騰するのではないだろうか。電車止まった日のTwitterのタイムラインって沸騰してませんか?

また、その集団的沸騰のベクトルはトーテムへの帰属意識によって変化すると考えられる。会社への帰属意識が強い社員はタクシーを乗り換え徒歩で出社する。それを上司は褒め称える。学校への帰属意識が弱い学生は速攻サボる。などなど

考察の最後に儀礼の非日常性に関して追記してみる。終身雇用を前提とした昭和の頃が会社や学校への帰属意識が一番高い時代だったと仮定しよう。この動画は乗車率300%だった頃の中央線のラッシュの様子だ。とにかく乱暴に乗り降りする客。

当時の中央線は殺人電車と呼ばれていたらしく、今一番混雑している電車(東京メトロ東西線の199%)よりもかなり混雑している。もちろん、順序良く並ぶとか降りる人優先とかのルールもなし。満員電車の非日常性が徐々に緩和した頃に乗車マナーとして整列乗車や降りる人優先などの新たな儀礼が生まれたようだ。加えて平成の時代には女性専用車両が本格的に導入され、儀礼の要件にある「聖なるもの」を彷彿とさせるルールが現れた。昭和の頃の会社や学校への強烈な帰属意識は薄れていったが、通勤通学の満員電車は新たな儀礼を生み出しながら、令和の時代もしぶとく生き残り続けたのかもしれない。

結論

結論として、私は通勤通学は強制力を持たず選択制とするのが良いと考えた。職場も学びの場も一ヶ所に止まる必然性がなく、むしろリスクでしかないのだとしたら、わざわざ通う必要はない。通勤通学が必要な人は快適に移動できるようになり家で仕事や勉強したい人はこのままステイホームできたら良いなと考えています。

まとめ

「今回は通勤通学における電車に乗るという行為について儀礼的な観点から考察した。その結果として通勤通学は、その集団(トーテム)への距離感を無視して組織へと留め置くための儀礼に過ぎないとの結論に至った。鉄道は好きだけれど満員電車は嫌いだ。満員電車よりSLとか乗りたい。

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余談になるけれど、JR東日本が時間帯別の料金制度を検討したり新幹線の半額セールをするような流れはこれからも続くと思う。これからさらにリモートワークが定着すれば数年後に満員電車は葬られる。通勤通学がメインではなくなった鉄道は、好きな時に好きな場所へ移動するための手段として新しい局面を迎えるだろう。その時には乗り降りする時の整列乗車は無意味な儀礼として残っているのか楽しみではある。

謝辞

このような学びの機会を与えてくださった中島太一様、プロ奢サロンの皆様にこの場を借りてお礼申し上げます。また、前回に引き続きレポートのテンプレを作ってくださった白紙様に感謝します。ありがとうごさいます!私のトーテムは白紙様です。

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