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【創作大賞2024 恋愛小説部門応募作品】好きになったらダメなのですか?#26

26:『ありがとう』

土曜日。
特急で本社がある隣の県へ行き、駅からタクシーで指定された場所へ向かった。
かなり古い小料理屋なのだが、一つ一つが年代物で私等が買えるような代物で無いのは一目でわかる。
女将に連れられ離れに行くと、金屏風の前におじちゃんは座っていた。
挨拶を済ませて席へ着き早々に私は退職願をテーブルに置くと、おじちゃんは分かっていたのか、何も言わずに私を黙って見ている。

暫く沈黙は続き、意を決して口を開いた。

「今月いっぱいで、退職させて下さい」

だが、おじちゃんの目を見る事は出来ずに俯いていた。
お猪口に注がれているお酒をくいっと飲み干すと、おじちゃんは

「とりあえず、理由だけ聞かせてくれんかのう」

とても優しい声を発した。

「自分の、能力に限界を感じたからです」

「…そうか。脇谷にパワハラをされている、という事とはまた違うんじゃな」

「はい。脇谷さんは関係ありません」

「…受理しよう。思い詰めて儂の処に電話をかけてきたんじゃろ?女が男と同じ仕事をする、という事は3倍も4倍も努力をせにゃならん。軍曹から嬉子ちゃんの頑張りは聞いとったからのう。どんなに辛くても泣き事言わず頑張ったと。8年間もよう、頑張った」

怒られる、と思っていた私は急にねぎらいの言葉を掛けられ、戸惑ったまま顔を上げた。

「泣いたら駄目じゃよ。化粧がおちてしまう。あぁ、何か儂に出来る事は無いかのう…」

私は慌てて頬を触ると濡れている事を知り、手拭きタオルで顔を隠して暫く泣いた。

多分、おじちゃんは仕事がツライ、と思ってくれているはずだ。
昔、近所に住んでいた、というだけの関係なのに、私はこの人の権力を使おうとしているズルい人間。

「あ、あの、一つだけお願いがあるんです。こんな事言えた義理では無いと思うのですが…」

「おお、儂に出来る事なら何でも言うとくれ」

「今、南課長が中国行きの話でバタバタしているので、私が辞める事を公にしたくないんです」

「不安にさせたくないのは分かるが、しかしのう…」

「やはり、駄目でしょうか…。な、なら!せめて、今月いっぱい、その、課長が中国に行ってしまうまで黙っていて貰えないでしょうか」

ふう、とおじちゃんはため息を吐いて、わかった、とだけ呟いた。
課長を守る事にはならないが、不安を取り除くためには必要な事、だと必死に言い聞かせた。
おじちゃんにも嫌われてしまったかも。
それでいい。
辞めて行く人間は、好かれてはいけない。

それからのおじちゃんは何事もなかったように普通通りで、他愛も無い話をしながらお酒を呑んでいた。
私もお呼ばれしたが、流石にあまりお酒が喉を通らなかった。

2時間程でおじちゃんはお迎えがきてしまい、お開きとなった。

私はタクシーであの日、課長と泊まったホテルに向かい、駄目もとで泊まった部屋番号を言ってみると、運良く空いておりそこを取る事が出来た。
部屋に入ると、とても懐かしく感じて課長が寝たベッドに座る。
あの時、こんな事態になるとか誰が予想できただろうか。

スマホをカバンから出し母に電話をかけると、辞める事を聞いた母は大喜びして、いつ帰って来る!?と声を裏返して聞いてきた。
何か拍子抜けして、大笑いしてしまった。
父の車だったら20分程なら乗れるようになったから、絶対に迎えに行く、と嬉しそうだった。
慶史には最後に言うつもりだ。
じゃないとヤツの事だから、会社に殴り込みをかけるかもしれないから。

化粧を落として湯船に浸かる。
誰も居ないこの部屋はとても広くて、泣けてきた。
匂いが残っている訳じゃないのに、課長が眠ったベッドに潜り込めば、抱き締められている感じがして、自然と眠りに就いていた。



それからの日々は慌ただしかった。
課長の代理で本社からひとり、そして研修でひとり、この支店に配属された。
名目は研修となっているが、多分、この人は私の後任。
その研修の子に仕事を教えながら事務の仕事を愛子に教える。
(全てを後任の人に押し付ける訳にもいかないので)
帰ってからは荷物を纏めていたら、あっという間に1日は過ぎて行く。
課長とは普段通りだったが、2人だけにならないようにした。
私の決心が揺るがない様にする為。
そのかわり、職場では笑う様に心がけた。
少しでも課長に笑顔を覚えていて欲しかったから。

月日というのはあっという間に過ぎて行く。
課長に悟られる事無く過ぎる事は好ましいが、反対に一緒にいれる時間が無くなって行く事。
矛盾する気持ちに大きくため息を吐く事しか出来ないでいた。



ーーー
そして、出発日の2日前の金曜。
愛子と後任を見送ると今後、彼女らが仕事に困らない為に仕事の手順を纏める。
課長が中国に旅立った数日後には自分もここから居なくなるのだ。
少しでも役に立てるように。
自分にできる最後の仕事だと思って。

きりのいい処まで済ませるとパソコンの電源を落とし、カバンを持つ。
部屋の電気を落として玄関の鍵を掛けると、タイミングを見計らったように課長の車が横付けされた。
同期と食事に行ってくると言っていたので、もう少し遅くなると思っていたのに。

私は『返事』を言わなければならない、と思うと心臓は忙しなく音を立て始めた。

暫く車を走らせ、海の見える場所で車を停めると、課長は黙って海を見つめていた。
お互い30分は口を開かずにただ、景色を眺めていたが、このままではいけない、とぎゅっと目を瞑り意を決し口を開いた。

「…私、課長の気持ちに、答える事が出来ません。ごめんなさい」

しかし、多くを語るとぼろが出そうで、唇を噛みしめて俯く。
このまま車を降りた方がいいかもしれない。

「今迄、ありがとうございました。課長も気を付けて中国に行って下さい」

頭を下げドアを開けようと課長に背を向けると、長い腕が伸びて来て私は抱き締められた。

「ちゃんと答えを出してくれて、ありがとう」

耳元でもう一度だけ、ありがとう、と課長は呟いた。
私は両手で顔を隠し、涙を流しながらしゃくり上げて泣くしか出来なかった。


胸がぎゅっと潰される様な痛みは、私が感情を押し殺せば済む事。
これで、課長は救われるのだ。
そう、これが私が出した答え。


涙にぬれた顔を大きな手が包み込み、課長は真っ直ぐな瞳で私を見詰める。

「嬉子。出会ってくれて、ありがとう」

私は自然と腕を伸ばし、課長に抱き付いて泣いていた。


しかし、課長は一度も私の気持ちを聞かなかった。
気付いているから聞かないのか、聞きたくないから聞かないのか。
そんな寂しさも手伝って、涙は次から次へと流れ出た。





ーーーーーピ〜ンポ〜ン♪

「はーい。(あれ?何か届いたのかな?)」
がちゃ…。
「井之頭さーん、お届け物でーす」
「…配達員がいませんが」
「配達員兼荷物です」
「…帰ったんじゃ…」
「帰って着替えて荷物持って弟に送らせた」
「いやいや。家族水入らずで過ごすべきでしょ」
「そんな年じゃねーだろが。ま、明後日には日本立つし、上げ膳据え膳で」「って私の処に来なくてもいいでしょうに!ホテルでも旅館でも泊まって下さい!」
「えー、2泊くらいさせてくれよー。頼むよー。良い夢見させてくれよー」
「キャラ変わってますよ!課長!つーか、さっきの私の涙返して!こらー!服脱がせるなーーー!」


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