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何を祝ったらいい?

5月15日
私にとっては、とても大事な日です。

沖縄県本土復帰の日

昔は、行進してる日、としか思っていなかったが、とある舞台に関わってからは、真剣に考えるようになりました。
その舞台は、実在の人物を元にした劇で、その人物が、本土復帰に深く関わる人でした。劇の体験としての詳しい話は、こちらの記事で。


私の思う今昔沖縄

あれから5年以上経ちますが、その頃も今も、私の世代は「復帰」を知りません。両親や祖父母から聞かされる「昔の沖縄」なのです。それは、沖縄戦においてもです。ですが、どちらも、学べば学ぶほど、「今の沖縄」に繋がる、いえ、「今の沖縄」を縁どるものだと、常々と感じます。

生まれてこの方、静かな空に出会えたのは、関西圏に住んでいた大学4年間だけです。飛行経路の下にある現職場も、5km圏内に米軍施設があった小中高時代の学校も、空がうるさい瞬間が来ます。オスプレイの低音も、F-35のキーンとなる音も、どちらにしろうるさいです。授業が中断せざるを得ないことが一体何度あったでしょう。たまに、「墜落するのではないか」という不安になる音もあります。一昼夜静かな空はあったでしょうか。それこそ、台風通過中は飛びませんが、そもそもとして台風時は風がうるさいのです。

学び舎を揺らす轟音ヒコーキに
慣れにし我らの耳ぞ悲しき

学生時代に詠んだ歌です。授業が中断しようが、うるさいと思おうが、「日常の一幕」なのです。日々の生活で怒り続けることにも疲れてしまうほど「当たり前」になってしまっている。それは、復帰から50年、いえ、沖縄戦から77年の間、変わらないからではないでしょうか。

届いてますか?受け取ってますか?

「銃剣とブルドーザー」で奪われた土地を「島ぐるみ闘争」で抗い、それでもなお脅かされる生活に平和憲法のある日本へ復帰したいと願った。「核抜き、本土並み」の言葉に覆われた真実、パスポートを握りしめて届けたかった「幻の建議書」。

上記の「」内は、沖縄戦後から復帰までを調べれば直ぐに出てくる重要なキーワードです。「銃剣とブルドーザー」、「核抜き、本土並み」には、沖縄県民の民意は入っていません。だからこそ、当時の沖縄県民は、「島ぐるみ闘争」で、「幻の建議書」で、立ち向かった。「島ぐるみ闘争」では米軍から譲歩を引き出したが、基地はまだ残る。「建議書」に関しては、強行採決されたために、届かなかった。さらに、「復帰記念式典沖縄会場」の隣の公園で行われた「復帰反対運動」。何度だって県民は、声を上げ、押しつぶされずに、自分たちの生活の安全を、先祖から受け継いできた土地を、守ろうとしてきました。

沖縄県民の声、届いてますか?受け取ってますか?50周年の式典を、複雑な気持ちで見るしかなかった人々もいることを、今日だけでもいいです。考えてください。理由を、知ろうとしてください。

私自身と本土復帰50年

琉球処分から沖縄戦までの66年間、沖縄戦から復帰までの27年間、復帰から今日までの50年間、目まぐるしく沖縄の世相は変わりました。目まぐるしく変わる中で、琉球王国時代から続く伝統芸能、伝統文化の灯火を絶やすことなく伝えてくれた先人たちに、感謝の気持ちでいっぱいです。
私自身の見解で言えば、今日の式典を素直な気持ちで祝えませんでした。戦をせず、県民運動の末に勝ち取ったはずの復帰は、50年経った今も、あの時の県民運動で掲げた「基地撤退」を実現出来ていないからです。50年前に武力ではなく対話で闘っていた先人たちに、笑顔で手を振ることが出来ないからです。「基地をなくすまで、沖縄の戦後は終わらない」と言われたのに、戦後は77年、今も更新中です。戦後100年には両手を振ることができるのでしょうか。復帰100年には「戦後終わったよー!」と、過去へ向かって大声で叫ぶことができるのでしょうか。
まだ自信を持って「できる」と、私は言えません。沖縄戦を、本土復帰を「昔の沖縄で、今の沖縄につながること」と認識する私たち若者世代は、何ができるのか考え、行動するしかありません。沖縄戦や復帰運動に関わった人は、自身の体験を「語り」として伝えられますが、本人の存命期間(活動期間)のみと語り部運動には限界があります。「語り部」に変わる継承の仕方を、私は考えていきます。

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