復縁的文学鑑賞・太宰治『斜陽』
太宰治は〈女語り〉が非凡に上手い。あまりの観察と描写に、「私のことが書いてある」と錯覚するほど。川端康成も太宰治の〈女語り〉による作品をベタ褒めしていることから、その技術の高さがうかがえる。
ここで紹介する『斜陽』は、そんな〈女語り〉を採用した小説では最も長い作品。太宰治の文庫本に限っていえば、『人間失格』に次ぐ売り上げを誇る人気作だ。
いまなお多くの人を惹きつけてやまない太宰治作品。それはきっと、人間の感情の揺れ動きをあまりにつぶさに書き取っているからだろう。
ロマンチストな部分もナルシストな部分も、自分ばかり可哀想だと感じてしまうちょっと身勝手なところまで、ぜんぶ書いてある。だからこそ、みんな太宰治を読まずにはいられない。なぜならそこには「自分のこと」が書いてあるから。
そんな太宰治の小説は、きっと復縁を目指す人にも大きなヒントをくれる。
さて、太宰治『斜陽』は、語り手であるかず子の独白によって展開される小説。このかず子がなかなかのツワモノで、粘着質・依存体質・駆け引きまみれ、さながら復縁女子のお手本のよう。
舞台となるのは戦後の日本。GHQの戦後政策や弟・直治の薬物依存、さらに母の結核と、さまざまな問題がかず子の身に降り注ぐ。彼女は行く先を求め、かつて一度だけ会い、飲み屋から外へ続く階段でキスをしただけの男・上原に手紙を書く。
あらすじを雑になぞればこんな感じ。
自分の状況が二進も三進もいかなくて、元彼(『斜陽』は元彼ですらない)に何かとんでもない救いのようなものを求める。これは復縁を目指す人の思考にとても近いのではないか。
自分が不安だから、不安の元を解消するのではなくて、他人の力で人生を変えようとする。あるいは、彼が私を愛してくれさえすれば、全てが好転するという、余りに踏み外した現実認知。
かず子が書いた手紙というのも、迂遠で、婉曲で、駆け引きに満ちた「私を愛人にしてくれ」という内容。当然のように返事はない。
現代に置き換えれば、かつてのセフレからお気持ち表明の長文LINEと言ったところかもしれない。そう考えると、とんでもない地雷臭がする。
この後もかず子はことあるごとに手紙を出す。身の上話とか、自分にちらついた男の影とか、色々。
彼が振り向いてくれない時のアプローチがとんでもなく下手くそな、いつかの私のようで恥ずかしい。結局、返事はないので会いに行くことに。
ところが、再会すると今度は上原がたいした男じゃないことに気がつく。ここで二人は関係を持つものの、どうやらその一度きり。その後は会っていないらしい。
さらに、かず子は想いを遂げたまさにその場面において、「私のその恋は、消えていた」と語ってる。俗にいう蛙化現象かもしれない。あんなに手紙を書いて、愛人にしてくれと願った相手である上原が、なんだかちょっとどうでも良くなったのだ。
でも、その少し先では「恋があらたによみがえってきたよう」とも言っている。注目するべきはこの時の上原に向けられた数々の言葉たち。
「私のひと。私の虹。マイ、チャイルド。にくいひと。ずるいひと。」
印象的なのは「マイ、チャイルド」で、恋が消えたその先に、落ち着いた母性愛みたいなものが芽生えてる。この感覚がきっととても大事なんだろうと思う。
もう少し先を読み進めると、作品の最後はやはり上原へ宛てた手紙。このかず子の手紙こそが、彼がくれた傷を胸に本を読み漁っていた時の、私の感情を揺さぶった。
かず子は、上原との子どもができたことを告げつつ、こんな風に書く。
まず「あなたが私をお忘れになっても」。
想いを遂げた後に上原へ向ける興味なんか持ち合わせていなくて、非常に静かな心持ち。忘れられない、私を見てほしいと手紙をしたためていた頃のかず子とは打って変わった態度の手紙。
その次に「私にこんな強さを与えて下さったのは、あなたです」。
上原に会うために上京し、上原の妻子に会い、慣れない場面をさまざまにこなしたかず子。ついには「私生児と、その母」として生きていく覚悟を決めるほどの強さを手にしている。
きっと、戦後間もない日本で、女性がそうやって生きていくのは難しい。でも、その強さを上原との関係の中で手に入れたかず子は、過ぎ去っていった恋を「虹」として認めながら、一人で生きていくことができる。
忘れられても、あなたがいなくなっても、ただ私はあなたを好きだった。そんな事実を認めて受け入れることができる恋は、とても素敵だと思う。
駆け引きも、粘着も、依存も、行き着くところまで行ったらあとは解放されるだけ。
想うだけ想って、恋焦がれて、あとはダメでも仕方がない。そんなふうに思えたら、とても気持ちが軽くなる。
こんな人の想い方もありなのではないか。傷ついただけでは終わらせない、想い続ける希望をくれる一冊です。
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