「かもめ」のはなし

Adobeのイラストレーターを使っていると夏目漱石の『草枕』にばかり遭遇するのですが、冒頭中の冒頭にしか辿り着かず、いつも山路を登っているだけです。イラレが使いこなせるようになったらもっと先まで出てくるのかもしれませんが、そんな気配もないので本を読むことにしました。意地を通すのは窮屈ですから。




ちょうど一年前くらいに、チェーホフの『かもめ』漬けになっていました。お芝居を観に行くための予習として読み始めたのがきっかけです。

初かもめはコチラ↓

『かもめ・ワーニャ伯父さん』(新潮文庫)


この『かもめ』を初めて読んだときは正直、喜劇とも悲劇とも思わず、なんだかよくわからないという感想しか持てませんでした。
じつはチェーホフの戯曲をちゃんと読んだことがなかったのです。短編の『かわいい女』を読んでいろいろと衝撃で、読後も間を置いて何度も「あれってどういうこと?」とぼんやり考えたりはしていました。ちょっとシニカルな印象なのだけれども自分にはするーっと無意識的に入ってくる。そんな作品を書く人だと思っていました。


でも、初かもめはとくに何の感想もなく、終わり方も「え?こんなんで終わるの??」と納得できず、お芝居見てからもう一回読むかもしれないし読まないかもしれない、程度にしか思いませんでした。




芸術で人って変わるんですね。お芝居を観たらがっちりハマってしまって、そこからずっと「かもめ漬け」。いろんな翻訳をひたすら読みました。

内容も覚えてしまっているので、翻訳ごとの違いを楽しんでいました。

登場人物が片道6kmを歩いてある人物に会いに来るというセリフがあるのですが、とある翻訳ではそれが5kmになっていまして。

こういう微妙な違いも、つづけて同じ作品の違う翻訳を読むから発見できること。
原語では何kmだったのだろう?単位が違うのかも??翻訳の翻訳??



最近自分の着る服が黒色のものが多くてですね。
ふと、ひとり言で自分にたずねてしまいいます。



「どうしていつも、黒い服を?」


さて、なんて答えようかしら。



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