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一般人がnoteを書く向こう側で、犯罪が起きていた

そもそもわたしは、何者でもない。何の肩書きもない。大業を成し遂げたわけでもなく、何か大きな賞をとったわけでもなく、何かが秀でて優れているわけでもない。誰かに評価されたいと思うことはないし、これから先も評価を求めて動くことはしたくない。評価は目的ではない。

noteを書いているのは、ただ書きたいから。ただ、書きたい。そして、読んでほしい。それだけである。それ以上の理由はない。本当にただ書くのが好きな一般人女性なのである。やけに人の多い東京で会社員として好きな仕事に打ち込み、自粛になってクラフトビールに目覚めた酒豪。こんなわたしを好きだと言ってくれる友人と酒を飲み、恋人がいないことにちょっと物足りなさを感じてきた、花粉症に悩んでいる25歳の一般人。

そんなわたしがnoteをはじめたのは、2017年の9月。いまからちょうど3年半前のこと。文章を書きたいなと思っていた時に、noteの存在を知った。

書いていくうちにフォロワーが増えた。最初は誰も読んでくれなかったのに、どこで見つけてきたのかわたしの記事を読んでコメントやメッセ―ジをくれる方がこんなにも増えた。耐えきれずにこぼれ出た吐瀉物のように、書き散らかしまくる自分勝手な記事を読んでくれる人がいるなんて、インターネットってすごいなって感動する。素性もわからないわたしの記事を読んでくれて、いつも本当にありがとうございます。貴重な人生の数分をいただけたことに、感謝しかない。

読んでくれる人が多くなれば、様々な意見を目にすることになる。読者さんからもらった、たくさんの温かい声に何度救われただろう。読んでくれるだけでも嬉しいのに、わざわざ自分の考えや想いを伝えてくれて、こんなに幸せなことが書き手にとってあるだろうか。書いてくれてありがとう、言葉にしてくれてありがとう、生きていてくれてありがとう。たくさんの感謝をもらった。
ある時には、「sakuさんの記事を読んで死ぬのをやめました」と連絡をいただいた。
最初は自分のためだけに書いていたものが、誰かを救うものとなった。わたしのためが、誰かのためになる。書き続ける理由になる。書きたいと思う、理由になる。読んでくれる人がいて、わたしはとても幸せだ。

いただいた声の中には、鋭利なものもあった。こんな好き勝手書いているくせに、他人の目を気にせずにはいられない性格ということもあって、わたしってどれだけめんどくさいんだと自分でも思う。時にはコメントに心を痛めることもあったし、中には明らかな悪意が込められたものもあって、受け止めきれずに泣いた日もある。批判や中傷の言葉を受け取るのは、発信をする上で避けられないと覚悟しているけれど、どうしても気にしてしまうことがあった。
それでも、意見をくれた方はわたしの記事を読んでくれたわけであって、貴重な時間を読むことに費やしてくれた事実は変わらなくて、それはありがたいことだ。

読み手の数だけ答えがある。表現や感性に正解なんてない。批判も中傷も、最早正解だとさえ思う。わたしは書きたくて書いているだけだから、読みたくて読んだのなら好き勝手意見を言ってくれて構わないし、むしろコメントまでくれるなんて、光栄だ。そうやってお互いの意見を表現し合えるのがインターネットの醍醐味であり、陰があれば陽もあり、そのどれもが間違っていない。そう思って、どんな意見もわたしは受け入れることに決めている。

だから、これを書くのはとても迷った。迷ったし、今でも迷っている。
実は、ある出来事をきっかけに2カ月間noteを書いていなかった。物理的に忙しかったというのもあるけれど、書く気力がとにかくわかなかった。あんなに書くのが好きだったのに、書けなくなったこの出来事について、わたしはこれからも一生忘れないと思う。インターネットというものがどういう世界なのか、表現や創作をしていくうえで何が大切か、そして顔の見えない誰かと繋がれるSNSの使い方について非常に考えるきっかけになったので、思い切って書くことに決めた。

わたしの記事に、毎回コメントをくれる方がいた。noteを書きはじめた初期の頃からだと思う。そのときはまだ読んでくれる人なんて全然いなかったから、もらう言葉ひとつひとつに今よりも過敏に反応していた。最初は普通のコメントだったから、わたしも普通に反応していた。コメントを普通にいただけていた、あの頃のこと。きちんと覚えているし、嬉しかった。こんなわたしを見つけてくれて、嬉しかった。

だけど、段々様子が変わっていった。noteを書くわたしに対してのコメントというよりは、自身を性的にみられているような、何かもっと別の目線を向けられている「そういう」コメントに変わっていった。noteだけではなくて、他のSNSからも連絡をいただくようになって、それがちょっとずつわたしの中で消化しきれなくなっていった。誹謗中傷や批判、セクハラや悪意もすべて意見として受け止めると決めていたけれど、もうとっくにそのボーダーラインを超えていた。そのときから直感的に身の危険を感じていたのかもしれない。ツイッターはブロックをして、いただいたコメントが許容範囲を超えるものだったら、削除させてもらった。少しずつコメントがこなくなって、わたしも安心していた。

数か月後。

その方が、ある犯罪で逮捕された。

それを知ったのは、会社で仕事の息抜きにツイッターを見ていた時だったから、そんな話を受け止める覚悟なんてできていなかった。スクロールしていたら、すぐにニュースが流れてきた。その方のお顔はわたしも認知していたけれど、使っていた名前は偽名だった。ネットで偽名を使うのは良くある話だけれど、なんだかそれさえも怖くて、手が冷たくなった。
隕石衝突並みの衝撃を受けると、人はしばらく動けなくなる。ニュースはかなりの人の目に触れていたみたいで、何千もRTされていた。残忍なもので、辛い内容。いくつものネットニュースで取り上げられていて、なんだか映画をみているような他人事に思えて、やっと落ち着けた数十分後。とりあえず親友に連絡した。
ふたりで震えあがった。

どうやらわたしは感情を感じ取るのが人よりも遅いようで、次の日に思いっきり恐怖と疲弊がやってきた。その日も仕事だったけれど、全然手につかなかった。足の小指をぶつけて、後から痛みがじわじわ広がるような、そんな感覚。痛くて悲しくて、訳が分からなくてただ泣いた。

わたしの記事を読んでいたあの方は、今頃どうしているんだろうか。どこにいて、何を思っているのだろうか。普通にコメントをくれていたあの方は、どこにいってしまったんだろう。わからない。
ただ、わたしはこの出来事で、すっかり書く気力がなくなった。ぽきっと、心が折れる音がした。この出来事があってから、しばらく無理やり書いていたのだけれど、なんだかもう嫌になってしまった。

わたしからは見えない向こう側で、わたしを見ていたあの方は。
わたしを見続けていたあの方は。

わたしは被害者ではないけれど、
知らないうちにあの方は加害者になっていた。

この話には続きがあるけれど、これ以上は書かない。誰のためにもならないから、書けない。

インターネットには、可能性が散りばめられている。ネットで成功して、有名になることは王道になったし、それを狙って幾多の人が挑戦を繰り返している。顔を出すことも、素性を明かすことも、当たり前になってきた。
でも、だからこそ使い方を間違えると、取り返しのつかない状態になることだってあり得る。もしもわたしが個人情報をおおっぴらに公開していたら、今生きているかわからない。自分の味方だけが、ネットにいるわけではない。その危険性を、わたしは今改めて問いたいのである。それをわかったうえで個人情報を載せるのならばそれは自分の責任になってしまう。自分のなにを不特定多数の人々に伝えるか、よく考えて行動する必要がある。

どんな善人だって、いつ人を殺すかわからない。殺人が起きるたびに人は犯人を叩くけれど(同時にメディアも叩くようになったのは、なぜなのか)、何かのスイッチで人は簡単に変わる。豹変する。そのスイッチの居場所が多くの人はわからないだけで、なにかの拍子で、例えば怒りや悲しみでスイッチを自分で押してしまって人を傷つける可能性は、誰にでも平等にあるのではなかろうか。感情を持っている限り、なにをするかがわからないのが人間だ。

結局みんな、「何者」になりたくて必死なんだろう。今以上の自分を、これじゃない自分を、もっと違う何かに焦がれている。それを、インターネットで探している。わたしもそのなかのひとりで、自分が何者でないことを自覚していて、無力さに反吐がでそうになる。
わたしにコメントしてきていたあの方も、そうだった。何者になりたい怒りで、きっとそうなった。想像でしかその方のことを知れないから、これはひどく無責任な推測だけれど、きっとそうだ。
何者になりたい承認欲求で、人は壊れる。
なれなくて、怒る。
なれなくて、焦る。
なれなくて、悲しむ。
なれなくて、取り返しがつかない別の何かになる。

だけど、わたしは思う。「何者」になったって、自分以上のことはできない。憧れに手が届いても、わたしはわたしでしかない。
例えば今、いきなり「有名な作家」という大層な肩書きを手にしたって、わたしはわたしを捨てることはできない。脱皮みたいに、生まれ変わることなんてできない。消したい過去も、後悔も、トラウマも消えない。実力以上のことをできない。どんなに足掻いても、そこに残るのは自分だけ。

きっと人は、何者になってからも何者を求めるのだろう。何者なんて、どこにも存在しないのかもしれない。ジョジョの「くしゃがら」みたいだ。

インターネットという広い海。自分からは見えないところに、自分の手には負えない何かが潜んでいることを、絶対に忘れてはいけない。何者になりたい欲求で、自分を壊さないで。他人を壊さないで。
何者って、多分なるものじゃない。いつのまにか、なっているものだ。だから焦らないで。

危険と隣り合わせなこの海で、顔の見えない相手が、どんな人かを全て知ることはできない。その関わりで、未来で何が起きるか本当にわからない。
だから、危険や旨みの本質を自分で判断するしかないのだ。自分で考えて、上手に付き合っていかないと、インターネットに溺れてしまう。
いろんな人がいて、それが楽しいはずのコイツをどうやって使っていくか、判断をきちんとできているか、ネットでの関わりが当たり前になったからこそ今一度考えて欲しくて、この記事を書いた。

いっそ、書くことなんてやめちまおうかと思った。

ただでさえアンチもいるのに、心ない言葉に傷つきやすいのに、こんな馬鹿みたいに馬鹿な記事を書いて何になるんだろうって、これまでの自分を悔いたりもした。
なによりも、知人にインタビューをする企画などもやっていたから、わたしの大切な人に危害が加わる日が来るかもしれないことが怖かった。わたし一人が死んだってどうせ世界は変わらないけれど、死んでほしくない人を守りたい。

それでも、書かない間に過去に書いた記事を読んで、連絡をくれる方がいた。sakuさんの記事を、楽しみにしていますと、わざわざメッセージをくれる方がたくさんいた。その小さな積み重ねで、だんだん書きたいと思えるようになって、じゃあ何を書こうかと考えた時、一番に伝えたいことが今の自分の気持ちだった。いつものように殴り書いているから、駄文で申し訳ないけれど、何か伝われば嬉しい。
冷たい人もいて、でもそれ以上に温かい誰かがいることも知って、待っててくれる方がいることも知って、だからわたしはまだ書くことに決めた。

例のウイルスで荒んだこの世の中で、自分に何ができるかを真剣に考えている。インターネットの海で泳いで溺れる人を目の前に、どう手を差し伸べるかを考えている。考えたところで答えなんてでなくて、わたしは自分の経験でしか発言をできなくて、自分で自分を知っているからまた嫌になる。
考えるのは得意なくせに、伝えるのはいつも難しくて、自分の考えていることがまっすぐに相手に伝わればいいのにって、未だに幼稚な想いを抱えている。
こんな無力なわたしだけれど、もどかしさと正解を求めているたったひとりの答えになればいいと、なれたらいいと、それだけを願って書いている。

闇を祓って 闇を祓って。

わたしは、これからもnoteを書く。
わたしは、わたし以上のものを書けない。
それでも書くと決めた。書きたいから。それだけです。

ただいま。

いつも応援ありがとうございます。