「おかえり」が聞きたくて、生きている

家族四人が揃って暮らしていたのは、福島にいた時だけだったと思う。小学校の頃に東京にきてから、家族が揃って暮らすということはなくなったから、もう色あせて曖昧な記憶の中でも、幼い頃に家族と一緒にいた時間はわたしの中ではとても特別なものだ。白い壁の一戸建てで、駐車場の隣にはおばあちゃんのこだわりの庭があって、日当たりがとてもいい家だった。紺色の母の車と、白色の父の車が並ぶ駐車場を窓からみるのが好きだった。隣り合う車が、なんだか無性に愛おしかった。

幼稚園の送り迎えは、毎日お母さんが車でしてくれていた。田舎ということもあって、幼稚園は山を登る途中にあって、中途半端に空気が薄かった。土地が広いから建物自体も大きくて、幼稚園の裏側は畑になっていて、よくそこで芋を掘っていた気がする。帰ってくると大体兄の友達が家に来て、わたしはなんだかきまずくて二階にこもってひとりでシルバニアで遊んでいたっけ。たまに混ざって遊んだりしていたけれど、二つ上の兄の友達はやけに大人に見えて、うまくなじめなかった。兄の友達の中でわたしをすごく可愛がってくれるお兄ちゃんがいて、家に来る友達の中でもずば抜けて大人びている人で、もじもじしている私と一緒に遊ぼうとしてくれて。それがなんだか恥ずかしかった記憶がある。

夏になれば、海に行った。父の車にバーベキュー道具やパラソルなどの一式を詰め込んで、四人で海へ遊びに行った。砂浜はいつも熱くて、岩間の海はしょっぱくて、兄と一緒に砂を掘って。車の中に新聞紙をひいて海から帰る瞬間は少し寂しかったけれど、兄と父と三人でお風呂にはいって海水を落としていた光景が今でも鮮明に思い出される。

秋の記憶はあまりない。夏だったかと思えばいきなり寒くなって、いきなり冬になったみたいに寒くなって、温暖差にびっくりしていたな。ただ、父が押し入れからこたつを出すタイミングでわたしは季節を感じていた気がする。あ、冬が来るんだって。なんだかわくわくしていた。

冬になって雪が降れば、はしゃいで外で遊びまくった。風邪引くよ!という母の言葉を無視して、おばあちゃんと庭で雪を見た。部屋の中にあるこたつに、冷えた身体を突っ込むのが好きだった。しもやけだらけの両足をかきながら、母が内職をしているのをぼーっと見てた。灯油ストーブに足を近づけすぎてやけどをして、怒られた。なんだかそれも嬉しかった。

どんな季節も好きだけれど、なによりも。わたしは、福島で見る桜が大好きだ。春が好きだ。福島の桜はなんだか優しい。そびえたつ一本一本の木が、まるでなにかを語り掛けるかのようにわたしを見下ろしてくれていて、風が吹くとその身が朽ちる刹那に音なく散っていって。福島の大地に落ちる桜の花びらがとても綺麗で。

切なくて、悲しくて、愛おしくて。心なんてものは身体にはないはずなのに、心臓をギュッと掴まれたみたいに苦しくなる。

わたしは、父に愛されている自信がずっとなかった。

父は転勤族だったから、単身赴任であちこちへ飛んでいた。ついていくわけには行かないと判断したのだろうか、それともわたしの知らないところで母と父になにかがあったのだろうか。幼いながらに何がおきているか全てわかっていたけれど深くは聞かなかった。気づいたら東京にいて、母方の祖父と祖母の家にいた。引っ越しで荷物だらけの部屋で、一息ついてリビングでわたしがよく知らないアニメを見ていた時、隣の部屋で泣きながら母が父に抱き着いていたのを覚えている。あの光景は、どうしたって忘れられない。そっと見ないふりをして、興味のないアニメをまた見始めた。スポンジボブのぱくりみたいな、よくわからないやつ。内容は何一つ覚えていない。

父は昔から、とてもわたしに厳しかった。兄と比べても、比べるのもおかしいけれど、でもとても厳しかった。なにかを欲しいとねだることはどうしたってできなかったし、困ったときに相談をするなんてことは、まずできなかった。父が、怖かった。根底に「怒られたくない」という気持ちがわたしにあったからなのだろう。心で会話をしたいのに、怒らせて心身共に傷つくのが怖くて、もうなにも言わないようになっていた。ただ、可愛がってもらっている兄がうらやましくて、どうしてわたしにはいつも背を向けているんだろうって、どうしてそんなにわたしと距離をとるんだって、もうすこしお父さんらしくしてよって、心の中で皮肉なことを思い続けていた。クレヨンしんちゃんやドラえもんを見て涙を流していたのは、自分の知らない温かい家族があることに羨ましさを覚えて、自分にないものに憧れていたからかもしれない。世界にはこんな家庭があるんだって、うらやましかったの。小学校や中学校の頃、最初は来てくれていたイベントにもこなくなって、でもそれは父が来たいと思わなくなったからだと、父の気持ち次第だと思っていたから、なにも言わなかった。言えなかった。

たまに東京にくることがあっても、父とは上手に話すことはできなかった。ただ、父はゲームが好きだったから、ドラクエやFFを淡々としているのをすこし距離を空けて眺めていた。休みの日は基本的に家にいたい父が、寝ている父が、本当にごく稀にお出かけに連れて行ってくれるのがうれしかった。最後に家族でディズニーランドにいったのは、わたしが小学校4年生の時だったと思う。ずっと憧れだった絶叫に乗ってみて、うれしさと興奮でわたしは頭が痛くなってしまって、それにすごく怒られてしまった。連れてきてくれたのにごめんなさいって、うつむいてずっと謝っていた。家族でずっと来たかったディズニーランド。「来れてうれしい」と、もっとちゃんと言葉にできていれば父に伝わっていたのだろうか。伝え方がわからない。

思い返しても、やっぱり父との思い出があまりない。そもそも一緒にいる時間が少なかったから、ずっと母の背中を見て生きてきたから、ぶつかりあうのも僅かな反抗期も、すべてを母と過ごしてきた。父がいる空間でわたしがわがままになると異様に怒られたから、あまり父の前で甘えるということができなくなっていたように思う。今思えば、兄こそ自分を出すことが少なかった。兄は、何を思って生きてきたんだろう。わたしたち家族は話合いをしたことがない。

家族ってなんなんだろうって、小さいころから思っていたけれど。家族も他人なんだって、家族だから自分を助けてくれるとか、甘えていいとか。一度だって思ったことがない。理解するのがあまりにも早かった。家族に期待も暖かさも求めてなかった。所詮他人だ。



そんなときを過ごしていたら。

3月11日。

あの日、わたしたち家族の思い出の地が全て、流された。

その時わたしは東京にいて、それなりに高校生活を楽しんでいて、春休みで部活をしていた。揺れが来た時に部長が「机の下に隠れて!」と叫んで、机の下にもぐった。あちこちで物がおちる音がした。

何がおきているかわからなくて、テレビでその光景を見たときに。見覚えのある土地が流されているのをみて足の先から冷たくなった。父には連絡がとれなかったから、母に電話をした。何回かかけてやっとつながって、父と連絡がとれないと泣く母に、とりあえず冷静になって待とう、と言った。自分が一番冷静じゃないのに、出てくる声に温度がなくて、そんな自分が怖かった。

やっと父と連絡が取れて安心をしたのもつかの間、その頃家にひとりでいた祖母は近所の方におんぶされながらせまりくる津波から逃げた話を聞いて、泣いた。幸い家は水に浸からなかったからよかったものの、その後は水も火もない生活をずっと続けているという話を聞いて、どうしようもない気持ちでいっぱいだった。東京の復旧はすごく早くて、こんな都会が嫌いになった。なぜ、ここだけ。

落ち着いた後、家族四人で父の車で福島に帰った。家はひびだらけで、壁は剥がれ落ちて、玄関の天井は真っ二つに割れそうなくらいに傷ついていた。車であちこちを巡ったけれど、幼いころに一緒に遊んでいた友達の家は、崖ごと崩れ落ちてなくなっていた。海沿いは、なにもなかった。なにも、ない。あったはずの家が、全部なかった。ぐしゃりと崩れた家が点々と並ぶ中、ここは本当にわたしが育った福島なのかと、信じられなくて、でも現実をきちんと自分の目で見れたことに安心をした。

わたしを可愛がってくれた大人たちは、みんな流されてしまった。お墓参りをしながら、カナカナと鳴く虫の声がいつもよりも大きく頭に響いて、それが妙に奇妙だった。

まもなくして、祖母が死んだ。単身赴任の父はそのころちょうど北海道にいて、祖母はひとりで死を迎えた。心臓の病気を持っていた祖母は、言い渡された寿命の倍を生きた。彼女は、とても強く優しかった。

父がわたしに厳しく接するのをみて、母がわたしへの扱いを困るのをみて。離れて暮らしているのに祖母は全部を悟っていたのだろう。全部をわかっていたのだろう。最後にきちんと会話をしたときに届けてくれた言葉が忘れられない。「桜子ちゃんは、普通の女の子よ」。あの時の笑顔が、ずっと忘れられない。一番にわたしのことをわかってくれていたおばあちゃん。救われたの。わたし、ずっと自分はおかしいんだって、愛されないんだって、自分を責めていたから。被害者面してしまっている自分も大嫌いだったけれど、本当にね、わかってほしいと思う人はみんな離れていってしまうの。人が、人間が、大嫌い。

おばあちゃん。あなたが亡くなった後、わたし実はね。誰も持って帰ろうとしてなかったけれど、亡くなる直前まで何をたべたとか、どんな気分だったか記録していたノート、全部持って帰ってきたの。これは家族にも言えてないんだけどね。おばあちゃんの生きた証、わたしはどうしてもわたしが持っていたくて、みんなに内緒でひとりで持って帰ってきちゃった。

わたしを普通の女の子だと言ってくれたおばあちゃん。わたしの誕生日は3月19日。おばあちゃん、3時19分に亡くなったのは、わたしに何かを伝えたかったんでしょう。わたしたち家族に何かを伝えたくて、わたしに何かを託したんでしょう。ずっと勝手に思ってる。その理由を、ずっと探している。

おばあちゃん。もう一度、会いたい。もっとちゃんと向き合えばよかった。もっとちゃんと、会いに行けばよかった。会いたいです。会いたい。涙が止まらない。

最後に福島に帰ったのは、今年の3月。その日はとても晴れていて、雲一つない快晴だった。上野駅から「ひたち」に乗って二時間弱。うとうとしているとあっという間に福島について、降り立った勿来駅の空気は昔と変わらず綺麗だった。常磐線に乗って一つ先の駅、「植田駅」。ここが、わたしの思い出の場所。家族四人で、住んでいた最寄りの駅。

小さいころダイエーだった場所は、大きな駐車場を携えるカラオケ「まねきねこ」になっていた。休日ということもあってたくさんの人が集まっていて、シャッターだらけの商店街との差に悲しくなった。歩く先にはヨークベニマルがあって、よくここで家族で買い物をしていたなって、ふと寂しくなった。おばあちゃんのお墓に供える花を買って、ベニマルを出た。

お墓参りの途中に、昔住んでいた家の前を通った。覚悟をしていたけれど、苦しかった。苦しかったな。

父が福島の家を売ったと知った時、ガツンと衝撃を受けた。幼いころに祖父を失くし、祖母と共に暮らしてきた思い出の家。それを手放すのにどれほどの勇気がいったのだろう。祖母がなくなっても家はそのままあって、長期休みの日には四人で帰っていて、それがわたしはすごくうれしかったのに。この家がなくなると知って、絶望を感じた。何とか守りたいと思っていたけれど、わたしの財力ではどうにもならなかった。父は、家ごと手放した。

まっさらになっていると思っていた。なにもないと思っていた。家が取り壊されるものだと思っていた。なのに、わたしが訪れたときに、「家」はあった。

あったのに、別の人が住んでいて、別の家になっていた。

真っ白だった壁は、真っ黄色になっていた。大好きだった庭はコンクリートになっていた。窓には、キャラクターのぬいぐるみがいっぱいならんでいて、顔がこちらを向いていた。なんだかそれに無性に腹が立った。いっそ家ごとなくなっていればすっきりしたのに。形はそのままで、でも思い出のものが誰かの手で改造されていて、そこに新しい暮らしがあること。家がなくなるほうがましだなんて思ってしまった自分が嫌だった。誰かに泣きすがりたかったけれど、どうしても父にも母にも連絡ができなかった。新しい生活を感じるあの家に、祖母が大事にしていた庭が消えたコンクリートに、悲しくてしょうがなくて、「他人の家の前」で静かにひとりで泣いた。

土地とはそういうものなのだろう。わたしたちの思い出が詰まった家に、新しい思い出が詰まる。それを繰り返していくのが、人間なんだろう。

社会人に入ってから、早々に一人暮らしをはじめた。早稲田大学に通っていたというのにわたしは新卒で入社をせずに、どうしても編集の仕事がしたかったから、契約社員として今の会社にはいった。最初は食べていくのに必死だった。お金はなかったけれど仕事は好きだったから、必死にやりくりをして生活をした。ド底辺みたいな生活のなかでも小さな幸せはいくつもあって、家族から離れて生活をすることに、次第に安心を覚えるようになった。家に帰っても「おかえり」が聞こえない環境に、安心感を覚えた。死ぬ気で仕事をすれば会社は評価をしてくれて、いまではお金に困らないくらいに一人で生きていけている。誰もいなくても、例えば誰かいても、わたしの価値はかわらない。わたしは東京の隅っこで、きちんと暮らしているよ。

だけど、たまに実家に帰るとどうしても息が詰まる。家族三人がいる家に帰ると、辛くなる。安心するはずなのに、好きなご飯を作って待っていてくれる母が大好きなのに。

どうして息が詰まるのかわからなかったけれど、その違和感の正体がやっとわかった。

「おかえり」が、苦しいんだ。

学生時代、ずっと家にひとりでいる毎日は、苦しくて悲しかったんだと、ひとりになって気づいた。帰ってきて「おかえり」なんて言葉を聞くことがなかったから、今実家に帰ってそれを聞くたびにとても違和感を覚えている。「おかえり」って、何。何に対して、おかえりって言ってるの?って。思ってしまったら最後、わたしは家族が言ってくれる「おかえり」に「ただいま」と言えたことがない。

帰る場所ってここなんだっけって。家族の「おかえり」に応えられない自分が、こじらせすぎていて悲しくなる。

「人は、産まれてから死ぬまで生涯孤独」。それがわたしの生きるモットーだ。家族でも友達でも恋人でも、どんなに話し合ったって、他人と分かり合える日なんてないと。わたしたちが見ている相手は、愛おしいと思う誰かでさえ、自分の中でつくりあげた偶像でしかないと思っている。それなのに、人は愛を求める。わかりあいたいと思う。わかりあえないと解れば、別れる。なんて無駄なんだ。

だけどわたしは、家族には自分のことをずっとわかってほしいと思っていたんだろう。わたしはここにいるよって、ここでひとりでいるよって、みんなの帰りを待ってるんだって。

寂しいって、言いたかったんだろう。

その長年の思いが蓄積されて、じゃあいざ家族と離れて暮らした今。慣れてしまったからこそ。離れてからうまくいく関係があると知ってはいるけれど、たまに帰ってきて、今「おかえり」を聞いて、うまく反応できないのはどうしたらいいんだ。喉元まででる四文字を返せないのはどうしてなんだろう。これは遅れてやってきた反抗期なのだろうか。「うん」としか言えないわたし。家族に悲しそうな顔をさせてしまう自分ももう嫌だ。

帰る場所は、土地じゃない。人の元だ。

いつか帰りたいと思っていたあの福島の家はもうない。でも、家族はここにいる。離れていても、生きている。家族四人が揃っていることが奇跡であると、わたしは痛いほどに学んでいる。素直になりたいんだ、本当は。本当はね。

甘えたいよ。泣きたいよ。もう頑張れないよ。

でもわたしは、「大丈夫」でいたいの。ちゃんとしていたいの。ひとりで生きていける姿を、きちんと見せたいの。申し訳ないけれど、自立している自分でいたいの。頼りたくもない。でも、助けてあげたい。そのスタンスはずっと変わらない。もしかしたら花嫁姿を見せてあげられないかもしれないけれどね、わたしが「わたし」としてひとりでも生きていることをね、見てほしいの。

こんなわたしにも、たったひとつ夢がある。それは、小説家になって、紅白歌合戦の審査員になること。四人がきちんと集まるのって、年末くらいしかなかったから。紅白みてあーだこーだ言う時間がすきだったから。わたしはいつか、ううん、近いうちに。三人が生きているうちに、大物になって紅白の審査員になります。

だからお願い、お母さん。泣かないで。お父さん、怒らないで。お兄ちゃん、生きて、あなただけはわたしが守ります。それだけをずっと思いながら、生きている。東京の7畳半の部屋で、わたしは少しでも明るい明日を夢見て生きている。家族が好きだと伝える方法がわからなくて、こんな風にnoteを書いている。

おばあちゃん。

わたし。ちゃんと生きれているのかな。ちゃんと生きてこれたかな。今、生きているって言っていいのだろうか。この先も、生きていくんだろうか。

とてもつらいことがあったって、人は孤独だって知っていて、誰かに頼ったって信じたって、裏切られて傷ついて、それの繰り返しだよ。でも人ってすごいね。どんなに失ったって、また出会うのね。生きていく限り出会うんだね。

温かい家族。それを知っている人が羨ましい。羨ましくて、仕方がない。わたしが知らない世界を、当たり前のように小さなころから手にして育った人と接すると、心の中がどうしてももやもやしてしまって、醜い感情に押しつぶされて沈んでしまいそうになるの。そんなこと言ったって、わたしにはわたしを産んでくれた両親がいて、いま一生懸命生きている兄がいる。何があったってこの歴史は変えられないから、変えたくないから。わたしは、これからも必死に生きていこうと思うの。もう帰れない福島に、恋い焦がれるように、家族そろって過ごしていたあのときの夢をたまに見てしまうけれど。

帰るのは場所じゃない。家族という「人」の元なんだよね。

今年の年末は、実家に帰ってみようかな。

「おかえり」に対して、「ただいま」って言えるかな。家族が揃う年末を過ごせること。それは長く続かないってわかっているから。一生懸命生きている家族のために生きてきた自分と、一秒一秒を大切に生きる家族に尊敬を忘れないで生きていきたいです。

帰ろうか、年末は。帰ってみようかな。父も定年を迎えて家にいて暇みたいだし、たまには一緒に遊んであげようかな、なんて。マリオパーティーをして、ワインを飲もうよ。そして、少しだけわたしを見て笑ってくれないかな。母も、兄も。今年を生き抜いてきたことに、みんなでお祝いをしよう。笑ってみよう。笑おうよ。

今年も家族みんなで、紅白が見れますように。そしていつか、わたしは。家族みんなが見ている紅白の審査員になって、わたしを救ってくれた音楽とともに年を迎えて、「おかえり」って言ってくれる家族の元に帰るんだ。

「ただいま」って、言わせてね。今年こそ。



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