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絶望を救えるのは、絶望だけだ

noteが、書けなかった。正確には、書かなかったと言った方がいいかもしれない。文字は浮かんでくるのに、言葉になってくれない。無理やりつなげようとすればそれなりに言うことは聞いてくれるのだけれど、わたしが望む形に捏ねることができなかった。頭の中で迷子のように浮き続けるそれらは、わたしの心をどんどん蝕んでいって、やがて冷たくなったままこびりついた。まだ、とれない。

昔のことを語るのもだいぶ野暮だけれど、わたしがnoteをはじめたときは、まだユーザーが少なかったこともあって、そこには確かにわたしが求めていた「自由」があった。とても、居心地が良かった。書きたいことを、書きたかったことを、評価や数字に気をとられることなくのびのびと書ける、そんな場所を探し続けてたどり着いた。素性も知らないどこの誰かが書いたものを読んで、わたしも読んでもらって、そのくりかえし。はじめて企画したnoteリレーも、知らない誰かが一本に繋がれればいいなと思って、ただそれだけで始めたものだった。
誰も、干渉しようとしないのが好きだった。
誰も、評価しないのが好きだった。 

だけど、時代が進んで世界は変わった。知らない間に、おいてけぼりになってしまったようだ。まるで、小学校の朝礼で必ずさせられていた「前ならえ」をしている気分だ。背が低いのに、一番後ろで必死に前にあわせようとしている、そんな奇妙な感覚。
きっと、甘えているんだろう。変化についていけないことに対して、言い訳を探しているのだ。マジョリティに飲み込まれ、自分の意見を言えなかったのを環境のせいにしていたあの頃みたいだ。幼かったわたしと、今の25歳のわたし。この数年で、いったいなにが成長したというのか。

自分が創作をしていない間にも、他人はなにかを生み出しているのかと思うと、妙な焦りを覚えるものだ。明るくて整った記事が溢れる今のインターネットの世界で、暗くて重たいものを書く勇気など、どうしたって湧かなかった。ツイッターをひらけば、今日も誰かの記事が目について息苦しい。わたしには到底書くことのできないような、楽しくて、明るくて、そう、まるでおひさまみたいに温かい創作物が溢れていて、異世界にいるみたいだった。自分には到底見ることができなかった世界で、陽の光を浴びて生きてきた人間がつくるものは、宝石みたいに輝いていて、眩しかった。

わたしが書く原動力は、怒りや悲しみなどマイナスの感情でしかなくて、だから書くものも全部冷たいというのに。そんな醜さを抱えなくても創作ができる世界線があることに、どうしてもどうしても、納得がいかなくて苦しかった。憧れと嫉妬で、どうにかなりそうだった。空気を読んで、時代に媚びて、歴史の作り手になることなんか忘れて、「求められているもの」を書いたとして。そんなものを、誰が読みたいというのだろう。もともと認められてきたかもわからないのに、いまさらになってわたしは、なにを求めるというのか。書こうとすればするほどにすり減って、もともと無価値のくせに自分を安売りしてしまう気がして、もうなんだか全部が嫌だった。

いつも、ニコニコして生きてきた。他人には「ふわふわしているね」と言われることが多い。雰囲気が柔らかそうで、愛想がよくて、それなりにノリも良さそうな。わたしはきっと、とても人懐っこい人間だったのだろう。

けれども、noteを書き始めた当初、何人かの身内から「メンヘラっぽいよね」と言われるようになった。単純に、「そんなこと書くんだ」「そんなこと思ってたんだ」と、驚かれることも増えた。憎しみや悲しみを惜しみなく書き綴り、闇が垣間見えるわたしの記事を読んで、わたしをやばい女認定してクスクス笑う人がでてきた。ばれていないと思っているのだろうか、身内の女の子から匿名でメッセージがきたこともあるし、遠回しに揶揄されたこともある。それらになんて返したかを、無責任なわたしは一文字も覚えていないが、情けないことに当時の自分はいちいちそれを気にしてメソメソと泣いていた。相手の狙い通りに、わたしはしっかりと傷ついていたのである。
なんて人間らしいのだろう。善意には気づかないくせに、悪意にはしっかりと心が反応するのである。バカみたいだ。

人と同じ時間を生きて、
人と同じ教育を受け、
人と同じように流行に興味を覚え、
人と同じように稼げるようになった。
わたしは、ひとりで生きていけるようになった。
ひとりで生きていく力を身に付けることが、最優先だと思って生きていた。
誰を好きになっても、恋をしても、溺れて自分を見失うことなどなかった。ひとりで生きていけない人間に、恋愛なんてする資格なんてないと思っていたから、地に足をつけた女になるのに必死だった。
あの頃よりも随分、感情も豊かになった。

それでも、苦しい。どうしたって悲しい。
今のわたしは、孤独だ。ただ無駄に、強くなっただけだ。
過去も、傷も、怒りも、なにもかもが嫌で仕方がない。

わたしは、楽しい記事が書けない。どうもがいたって、苦しくて悲しいものしか書けない。あの子みたいに、あの人みたいに、「きれいだ」といわれる何かを書いてみたい、憧れの対象になるようなキラキラしたものを作ってみたい、わたしだって、わたしだって。そうやって周りと比べて、自分の醜さに反吐がでそうになって、もう何回死んだのだろう。もうどうしたって、悔しいけれど、そうなのだ。わたしを動かすのは、捨てられないままひきずり続けた、腐った過去なのだ。過去がわたしを殺して、生かしている。未来になんて、興味がない。未来なんて、語らない。わたしはこの先に、なにも期待なんてしていない、なんの希望も持っていない。今日の自分が一番若いんじゃない、今日の自分が一番長老だ。これまでのわたしが死ぬ気で歩んできた人生と一緒に、わたしはこれからも不透明な人生を歩んでいく。

頭の中で、何度も殴った顔がある。原型がなくなるまで、めちゃくちゃにした。全部、わたしの頭の中に重なり残っている。消えずに、消すことなどなく、冷たくなったまま隅に置いている。ずっと頭が重いのは、わたしが犯した罪のせいだ。

何度も頭の中で殺した何かがある。どうしても許せなくて、どうしてもやるせなくて、頭の中でつぶした生命体がある。残酷なんてものでは表現できないくらいに、叩きのめしたものがある。そんなことをしたのに、わたしはまだ捕まらない。

頭の中で、何度もアイツの不幸を願った。「大人になれば許せる日がくるのよ」とか、許せた自分を勝手にレベルアップしたと勘違いして許せないままでいる人間を見下す嫌な大人が随分増えたこの世界、どうしてこんなに息苦しいんだ。許しをハッピーエンドにするなよ。

暗い部屋で、ひとり家族が帰ってくるのを待った。誰も帰ってこない部屋で、何度も同じアニメを観た。無力で抵抗できない自分が憎くて苦しくて、床に包丁を刺した。心にも、身体にも青あざができた。唯一信じていた先生に裏切られたあの日、学校を燃やす方法を考えた。いじめてきた女の子、馬鹿にしてきた男。自分の力でのしあがって、そいつらよりも格段にお金持ちになろうと決めた、なった。穏やかそうな顔をした自然が牙をむいて、帰ってこなくなった命を目の当たりにして、地球が怖くて仕方がない。わたしの顔を馬鹿にした男の顔が、ぐちゃぐちゃになればいいと思っている。こんな醜い女を好きになる男の子が信じられなくて、何人を傷つけたのだろう。わたしに愛をくれた人が、わたし以外と幸せになれることを真剣に願っている。

「お金がない」は、お金があるのが当たり前だったヤツのセリフだ。
「さびしい」は、寂しくない環境で育った証だ。
「愛されたい」とか言う前に、愛すことを知れよ。

何もかもが嫌で、何もかもが気持ち悪くて、でもそんなことを考える自分が一番無価値で、無駄な存在なのだと思って生きてきた。

きっと。書くことを知るまでは。そうやって自分を諦めてきた。
わたしは書くことで、どうしても救われてしまうのだ。

これが、わたしだ。
これまでと、これからのわたしだ。楽しさなんてかけらもない。わたしが書きたいことは、今のインターネットで求められているものでは到底ない。ジメジメして、ねばねばして、とても汚いものなのかもしれない。はたまた、その程度の経験と感性で絶望なんて語るなよと言われてしまうのかもしれない。

ずっと、泣き場所を探している。
ずっと、泣いてもいい場所を探している。

ヨルシカを聴いて、わかったような感想を垂れ流す大人が大嫌いだった。大嫌いだなんて、それも一種の憧れなのかもしれない。もう随分有名になった彼らの曲を聴きながら、わたしは何度も涙をした。理解されない孤独、行き場のない怒り、ぶつけられなくて、ぶつけなくて正解だった暴力が、これでもかというほど歌詞につまっている。彼らが伝えたいことは希望なんかじゃない。絶対に、そんな明るいものじゃない。大前提として、表現から何を感じ取るかは自由であることは十分に理解をしているけれど、わたしの心はそんな定義とは真反対に動くのである。

悲しみや怒りをこんなに「白」で表現できるのかと、震えた。絶望が、きれいなものに見える。絶望が、間違いでないことを、わたしは彼らから学んだ。

闇が、黒色でなくてもいいだろう。
ヨルシカが描くような、白い闇を、わたしは渇望している。

救われたくて、救いたくて、必死だ。わたしを救うのは白い闇だけれど、わたしが救えるのは何なのか、そんなことができるのかもわからないまま、それでも発信をし続けている。誰に届くかもわからないのに、誰かに届けたくて、まるで使命感のように傷つきながら書いている。一体、なにがしたいというのか。書かなければ幸せかもしれないのに、書かなければ楽なのに、どんなに悩んでも結果は同じだ。ただいま。

わかりあえない世界で生きながら、それでもわかろうとするだなんて、人ってやつはなんて美しいのかとも思うが、結局わたしたちはどこまでいっても他人だ。わかってもらえないことに嘆いたとしても、それは当たり前なのだ。わからないから、わかった瞬間が奇跡なのだ。共感が量産されたこの時代で、その真価を問うものは、どれほどいるのだろうか。

その身を投じ旅立った、制服に身を纏う若き命に対して、「自殺をする前に気づいてあげたかった」「誰かに助けを求めて欲しかった」と簡単に言う大人。そんなことを言えるのは、気付いてもらえるのが当たり前の人生だったから。助けてもらえるのが日常の日々を過ごしているから。恵まれていることに気づかずに、他者にそんな提案をするなんて、愚か極まりない。

死にたい誰かがいたとして、現実の世界に誰も助けてくれる人なんかいなかったとして、不特定多数の目に触れる可能性があるSNSに助けを求めたとしたら。
それこそ、自分が置かれている環境をことこまかに発信して、「どこに住んでて誰がいて、どんなことをされているか」を饒舌に説明できたら状況が伝わるのかもしれないが、無理だ。
そんなこと、言えない。言えないのだ。言えない理由を考えてくれよ、言えない理由を教えてもらわないとわからないのかよ。
助けに希望を持ちすぎたわたしたち。優しさや希望ってやつで、救えると本気で思っているのか。

結局、誰も死んだことがないから、「死」が間違いになっているんだろう。

わたしは、絶望を救えるのは、絶望だけだと思うのだ。

希望をふりかざすと、人は死ぬ。自分の世界は絶望で真っ暗なのに、自分の世界と真逆に守られている人間がいることに、また絶望をするのである。月と太陽は、一緒に暮らせない。白と黒は交わらない。
だから、絶望には絶望が必要なのだ。絶望を癒すのは、絶望なのだ。この論理が間違っていたとしても、誰にも理解されなかったとしても、きっと。世界なんて、そういうものなのだ。そういうものに、なってしまったのだ。

絶望にだって、愛がある。
絶望にだって、温度がある。
絶望を抱きしめて生きていくその背中を、抱きしめることができたなら。
本当の意味で救えるものがあったのかもしれないのに。

慈雨をもたらす夜空に安心をしながら、今日も夜中にひっそりとこんなことを綴る。
来る明日に嫌気がさしながら、明日がくる奇跡に感動しながら、東京の隅っこで夜をかみしめる。

これからもわたしは、真夜中にこんな暗い塊しか作れないのだろう。世間が望む、明るいものを書くことなどできない。

でも、それでいいんじゃないかと思えるようになったのだ。これがわたしで、これがわたしの正解だ。
こんな感じでも、わたしは自分の人生を不幸だと思ったことは一度もない。

だから、この記事を読んでくれたあなたの絶望も、正解だ。孤独が、寂しさが、全部あなたが生きてきた勲章なのだ。
わたしが謳う醜さで、誰かの絶望が救えたら。
こんな世界も、悪くないんじゃないかって思える気がしている。

#エッセイ #コラム #ヨルシカ



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