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音楽史年表記事編71.モーツァルト、歌劇「イドメネオ」

 1779年1月、モーツァルトはマンハイム、パリへの旅行からザルツブルクへ帰りますが、就職活動には失敗し、アロイジア・ウェーバーには失恋し、暗澹たる気持ちで帰宅し、再びザルツブルク宮廷に職を得て、大司教コロレドの指示のもとでミサ曲等を作曲するようになったといわれています。しかし、この時期に作曲した戴冠式ミサ曲K.317およびミサ曲ハ長調K.337のそれぞれの終曲アニュス・ディにおいて、後の歌劇「フィガロの結婚」で転用されることになる伯爵夫人のロジーナによって歌われる名曲「美しき日はいずこ」と「愛の神よ、御手を」が作曲されます。それ以外にもバイオリンとビオラのための協奏交響曲変ホ長調K.364やセレナード ニ長調「ポストホルン」K.320などの名曲が作曲されており、かなり充実した創作活動を行っています。モーツァルトはマンハイム、パリ旅行に出発する時は、ザルツブルクの創作活動の状況に絶望し、辞表を提出していたのですが、ザルツブルクに戻ると年俸450フローリン(約450万円)の宮廷オルガン奏者という好条件で復職を果たしていますが、これは通常の常識では考えられません。モーツァルトはイタリアでミラノのフェルディナンド公のために3つのオペラを成功させ、ローマ訪問では音楽家ではルネサンス時代のウィーン楽派の開祖である巨匠ラッソ以来となる黄金の拍車十字勲章をローマ教皇から授与されるという名誉を受けており、皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトの音楽家としての実力を認めていたものの、しかし、女帝マリア・テレジアはモーツァルト一家が敵対する英国訪問したことを許すことができなかったので、配下のザルツブルク大司教コロレドやマンハイムのカール・テオドール選帝侯に対し、モーツェルトの処遇を妨害し続けたものと思われます。皇帝ヨーゼフ2世は啓蒙主義者のプロイセンのフリードリヒ2世を尊敬しており、フリードリヒ2世を目の敵にしていた女帝マリア・テレジアとは確執があり、恐らくザルツブルク宮廷に対しモーツァルトの処遇について手をまわしていた可能性が考えられます。
 1780年10月、モーツァルトにミュンヘン宮廷から謝肉祭のための新作オペラ作曲の依頼が来ます。これはおそらく皇帝ヨーゼフ2世の意向に沿ったものと思われます。これ以降モーツァルトは1791年に亡くなるまでに8つのオペラを作曲しますが、これらはオペラ史にとどまらず音楽史における金字塔となりました。これらのオペラの内5曲は実質的には皇帝ヨーゼフ2世の委嘱によるものと見られます、すなわち「イドメネオ」「後宮からの誘拐」「劇場支配人」「フィガロの結婚」「コシ・ファン・トゥッテ」、さらにモーツァルトはプラハからの委嘱による「ドン・ジョバンニ」、皇帝レオポルト2世の委嘱による「皇帝ティートの慈悲」、そして民間興行師のシカネーダーからの依頼による「魔笛」を作曲します。
 モーツァルトの死後、モーツァルトの愛好家であったイギリス人のノヴェロ夫妻が当時すでにかなりの高齢であったコンスタンツェを訪問し、その記録を残しています。
・・・ノヴェロ夫妻はコンスタンツェに、モーツァルトは自作のオペラの中でどれが一番気に入っていたのかと尋ねたところ、・・・「ドン・ジョバンニ」と「フィガロ」が好きだったが、何よりも「イドメネオ」が気に入っていた。・・・結婚後、ザルツブルクを訪れ、「イドメネオ」第3幕の「私は一人行くだろう」の四重唱を歌ったとき、モーツァルトは感動に胸が詰まり、泣き崩れてしまった。(1)
イダマンテ(モーツァルト)・・ひとりさすらいに赴こう、よその地に死を求めつつ、その死に出会うまで。
イーリア(コンスタンツェ)・・私を悲しみの伴侶としてください。あなた様がどこにいらっしゃろうと、どこでお亡くなりになろうと、私もそこで死ぬことでしょう。
イドメネオ(父レオポルト)・・無慈悲なネプチューンよ!
エレットラ(姉ナンネル)・・いつ仇を討つことができるの?(独白)
・・・(8)
 モーツァルトはこの四重唱で自らの境遇を重ね、・・・父親からの自由を得た代わりの孤独、唯一の支えとなる妻のコンスタンツェ、運命に立ち向かう音楽の君主・・・これらの想いがめぐるなかでザルツブルクとの永遠の別れをつげました。
 従来のオペラ・セリアの規則では、このような4人の歌手がそれぞれの思いを語るという音楽形式を作品に導入することは本来認められていないとされていました。しかし、モーツァルトは四重唱を最高のものとし作品の頂点と位置づけ、以降のオペラにおいても四重唱が重要な役割を果たして行きます。(1)
 なお、「イドメネオ」作曲中の1780年11月、女帝マリア・テレジアが亡くなります。この女帝の死によって皇帝ヨーゼフ2世は政治、文化、宗教の改革を大胆に進めて行きます。モーツァルトに目をかけていた皇帝ヨーゼフ2世は、モーツァルトを宮廷音楽家に取り立てようとした形跡が見られますが、マリア・テレジア時代の寵臣が多く残っていたためか、なかなか実現せず、モーツァルトには1787年のグルックの死によってようやく宮廷作曲家の地位が与えられました。

【音楽史年表より】
1779年1/15頃、モーツァルト(22)
モーツァルト、故郷のザルツブルクへ戻る。ミュンヘンではアウグスブルから呼び寄せた従妹のベースレことマリア・アンナ・テークラと過ごし、彼女は傷心のモーツァルトを気遣ってかザルツブルクまで同行し、約2ヶ月間モーツァルト家に滞在する。(2)
1780年夏、モーツァルト(24)
ミュンヘン宮廷のオペラ監督ゼーアウ伯から1781年の謝肉祭のための新作オペラ作曲の依頼を受ける。(2)
10月作曲を開始、モーツァルト(24)、歌劇「クレタの王、イドメネーオ」K.366
3幕のオペラ・セーリア、アントワーヌ・ダンシェのフランス語5幕の原作をジャバティスタ・ヴァレスコがイタリア語3幕に書き改めた台本による。イタリア語への翻訳者は不明。イタリア語の台本制作を依頼されたヴァレスコは1766年以降ザルツブルクに居住することになったイタリア人の司祭であった。(2)
11月、モーツァルト(24)
女帝マリア・テレジアが亡くなり、1765年以来女帝と共同統治を続けてきた息子のヨーゼフ2世が本格的な単独統治を開始する。啓蒙専制君主として名高いこの皇帝は、この後理想的な近代国家の建設を目指してさまざまな改革に乗り出すことになる。宗教的寛容令、種々の教会改革、農奴制の廃止、拷問と死刑の廃止、出版検閲の緩和、国立病院と孤児院の拡充、プラーター公園とアウガルテン庭園の一般市民への開放などヨーゼフ2世が打ち出した政策の多くは啓蒙思想が唱える理性主義、人間中心主義の理念に裏打ちされたものだった。(4)
1781年1/29初演、モーツァルト(25)、歌劇「イドメネーオ」K.366
ミュンヘン宮廷劇場(選帝侯宮殿内のキュヴィリエ劇場)で初演される。タイトルロールのイドメネーオをテノールのアントン・ラーフが歌う。ラーフは1770年以来マンハイム選帝侯カール・テオドールに仕え、侯のミュンヘン移動に伴ってこの地に来ていた。モーツァルトは高齢のラーフのために作曲上の配慮を行っている。イーリアにやはりマンハイムから来たソプラノのドロテーア・ヴェンドリング、モーツァルトは1778年マンハイムにおいてラーフ、ヴェンドリングのためにアリアK.295、K.295aを作曲した。ドロテーアの義妹エリザベート・ヴェンドリングがエレットラを演じた。なお、父レオポルト、姉ナンネルがこの上演のためにザルツブルクから訪れている。オペラ「イドメネーオ」はその後、2回上演された。(5)(6)
モーツァルトは旧来のオペラ・セーリアで一般的であったレチタティーヴォ・セッコとアリアの単純な繰り返しという型を打ち破り、管弦楽伴奏付レチタティーヴォを多用し、レチタティーヴォとアリアを音楽的にスムーズにつなげることによって、劇の進行に自然な流れを取り戻し、また、合唱を重視し各幕に効果的な合唱を配置することで、起伏に富んだドラマティックな構成を作り出すことに成功した。また、四重唱では登場人物が異なる感情を歌うという斬新な趣向を取り入れた。(4)
「イドメネーオ」はミュンヘンに移住したマンハイム・オーケストラの精鋭のために書かれている。また、モーツァルトの手にはすばらしい合唱団があった。「イドメネーオ」には力に満ちたさまざまな音楽が現れる。それは主役のエレットラの髪の毛の逆立つような死を覚悟する歌から、大合唱あり(見ものは第24曲「ああ、恐ろしい誓い」)で、もちろん美しく快いアリア群やマンハイムの管楽器の種類の多さと音の豊かさを示してくれる純粋器楽の部分などについてはいう必要もないほどである。オペラの最後に置かれたバレエ音楽にも素晴らしい点が見られる。(7)

【参考文献】
1.アニー・パラディ著、武藤剛史訳、モーツァルト魔法のオペラ(白水社)
2.モーツァルト事典(東京書籍)
3.カルル・ド・二著、相良憲昭訳・モーツァルトの宗教音楽より(白水社)
4.西川尚生著・作曲家・人と作品 モーツァルト(音楽之友社)
5.作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
6.新グローヴ・オペラ事典(白水社)
7.R・ランドン著、石井宏訳・モーツァルト(中央公論新社)
8.名作オペラブックス30・モーツァルト・イドメネオ(音楽之友社)

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