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音楽史年表記事編56.モーツァルト、ピアノ協奏曲第9番変ホ長調「ジュノーム」

 モーツァルトは1777年1月にフランスの女流ピアニストのヴィクトワール・ジュナミのためにクラヴィーア協奏曲第9番「ジュノーム」を作曲します。モーツァルトとフランスの著名な舞踏家ノヴェールの娘のヴィクトワールがどのように知りあったかは知られていませんが、1767年にウィーンで裕福な商人ヨーゼフ・ジュナミと結婚していることから、この頃にウィーンで出会った可能性もあります。ヴィクトワールの父はウィーンでフランス王妃となる公女マリー・アントワネットにフランスの舞踏を教えていました。マリー・アントワネットは1770年にフランス王家に嫁ぎます。1777年4月には皇帝ヨーゼフ2世が非公式にフランスを訪問し、国王ルイ16世とマリー・アントワネットに面会しています。この皇帝のフランス訪問は結婚して7年にもなるのに後継ぎに恵まれなかったことを心配してのこととされています。亡き皇帝ヨーゼフ2世の妻のイザベラはフランス国王ルイ15世の孫にあたりますので、イザベラは同じくルイ15世の孫のルイ16世の従姉妹にあたります。
 この時期、ザルツブルクのモーツァルトは、新大司教コロレドに従僕のように扱われ鬱屈した生活を送っていました。モーツァルトはイタリアで3つのオペラを成功させ、ローマ教皇からは黄金の軍騎士拍車勲章を授与されるという名誉を受けています。ウィーンの宮廷作曲家のグルックはパリでも創作活動を行っていました。グルックもローマ教皇から軍騎士拍車勲章を受けており自らを騎士と名乗っていましたが、モーツァルトはグルックよりも格上の黄金の軍騎士拍車勲章を受けており、これはウィーン楽派を創始したラッソ以来の史上2人目の名誉でした。また、ミラノのフェルディナンド公からは雇い入れの依頼があり、これは実現しませんでしたが、かつてのフランスでの栄光を想い出し、フランス王家に雇われることを望んで、ヴィクトワール・ジュナミにクラヴィーア協奏曲を託したとも考えられます。フランス王妃のマリー・アントワネットは頻繁にグルックのオペラやオランピック演奏会に出向いていたからです。

 モーツァルトは1777年9/23、ザルツブルク宮廷楽団の職を辞し、母とともにマンハイム、パリへの旅行に出発します。この時代、才能のある作曲家や軍人が求職のために各国の宮廷を巡ることは珍しいことではありませんでした。ドイツ人のヘンデルやクリスティアン・バッハはイタリアやドイツを巡りロンドン宮廷に職を得ていますし、またラトヴィア生まれの軍人ラウドンはスウェーデン、プロイセンを巡り、ウィーン宮廷に職を得ています。モーツァルトはパリで舞踏家ノヴェールに再開し、パントマイム「レ・プティ・リアン」のためのバレエ音楽K.Anh.10を作曲し、パリ・オペラ座で上演されています。

【音楽史年表より】
1770年5/16
フランス王太子ルイとハプスブルク家皇女マリア・アントニア(フランスではマリー・アントワネット)の結婚式がヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂で行われる。王太子妃マリー・アントワネットはウィーンの宮廷でさまざまな教養を身につけて育ったが、音楽を宮廷作曲家グルックに習い、クラヴサンの演奏を行い、歌唱、作曲の基礎までも身につけていた。さらに、ウィーンでグルックと仕事をしていたフランスの舞踏家で振付師のジャン=ジョルジュ・ノヴェールから踊りを習い、踊り手としても才能を発揮する。後に、モーツァルトはノヴェールの末の息子とその妻ジュナミとウィーンで交流を持ち、1777年にジュナミのためにクラヴィーア協奏曲第9番変ホ長調「ジュノーム」K.271を作曲する。(1)
1777年1月作曲、モーツァルト(20)、クラヴィーア協奏曲第9番変ホ長調「ジュノーム」K.271
フランスの女流クラヴィーア奏者ジュノムの素性はこれまで不明であったが、2003年ミヒャエル・ローレンツの発見により、この女性の正しい名前と経歴が明らかになった。正しい名前はルイーズ・ヴィクトワール・ジュナミ。ヴィクトワールはフランスの高名な舞踏家ノヴェールの末子として1749年1月にストラスブールに生まれる。父がウィーン宮廷に雇われたのにともない、1767年にウィーンに移住、翌年裕福な商人のヨーゼフ・ジュナミと結婚する。モーツァルトは遅くとも1773年の第3回ウィーン旅行の時にノヴェール父娘と知り合う。ヴィクトワールは76年末か77年初頭(27、28歳の頃)にウィーンからパリに向かう途中でザルツブルクに立ち寄り、変ホ長調協奏曲の楽譜を受け取ったと考えられる。(2)
4/19、モーツァルト(21)
ウィーンの皇帝ヨーゼフ2世がフランスのヴェルサイユ宮殿を訪問し、国王ルイ16世とマリー・アントワネットに会う。皇帝としての訪問の煩雑さを避けるため、「ファルケンシュタイン伯爵」と名乗っての非公式な訪問であった。ヨーゼフ2世はフランス各地を見学し、5月末までフランスに滞在する。(3)
9/23、モーツァルト(21)
モーツァルト、母とともにマンハイム、パリへ出発する(マンハイム・パリ旅行、1年4ヶ月半)。当初は父レオポルトと二人で旅行許可を求めていたが、大司教はこれを拒絶、仕方なくヴォルフガングだけが辞職願いを出すことにした。ところがこの時大司教が下した決定は、ヴォルフガングだけではなく父レオポルトにも辞職をさし許すというものだった。この事実上の解雇処分にあわてたレオポルトは大司教に頼んで現職にとどまることを決め、結局、母親のマリア・アンナが息子の旅に同行することになる。父レオポルトに命じられた今回の旅の目的は「立派な定職を探すことと、もしそれがうまくゆかなければ豊かな収入が得られる大都市に行くことであった。(4)
1778年6/11初演、モーツァルト(22)、パントマイム「レ・プティ・リアン」のためのバレエ音楽K.Anh.10
パリ・オペラ座で初演される。モーツァルトは前年1月パリへ向かう女流ピアニスト、ルイーズ・ヴィクトワール・ジュナミのためにクラヴィーア協奏曲第9番変ホ長調「ジュノーム」K.271を作曲するが、パリではヴィクトワールの父でパリ・オペラ座の振付師であったノヴェールの依頼によってバレエ音楽を作曲する。(2)
この曲は1872年パリ・オペラ座の資料庫の中から、ヴィクトル・ヴィルデールによって筆写譜が発見された。このバレエはピッチーニのオペラ「偽りの双子の娘」の幕間に上演された。(4)

【参考文献】
1.今谷和徳、井上さつき共著、フランス音楽史(春秋社)
2.西川尚生著・作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
3.安藤正勝著・マリー・アントワネット(中央公論新社)
4.モーツァルト事典(東京書籍)

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