見出し画像

音楽史年表・記事編9.ベートーヴェン「歓喜の歌」の主題の源流

 ベートーヴェンの交響曲第9番の主題となる歓喜のメロディーの最初の形は、1794~95年作の歌曲「愛されない男のため息-応えてくれる愛」(相愛)に現れます。この歌曲を第1歩として、1803年には歌曲「人生の幸せ」(「友情の幸せ」)、1808年のピアノ、合唱と管弦楽のための幻想曲ハ短調「合唱幻想曲」に、1810年の歌曲「彩られたリボンで」に、1819年の歌曲「さあ、友よ結婚の神を賛美せよ」(結婚歌)に1822年の歌曲「盟友歌」にと、1本の赤い糸のようにベートーヴェンの作曲活動の間をぬってきています。(1)
 モーツァルトのオッフェルトリウム「ミセリコルディアス・ドミニ」K.222にベートーヴェンの歓喜の歌のメロディーが現れることが知られていますが、音楽史年表からベートーヴェンがモーツァルトのこのモテットの主題を使用したのではないかとの仮説が得られます。
 1775年、モーツァルトはこのモテットをバイエルン選帝侯の依頼によって作曲しましたが、その初演の1月半の後、ウィーン宮廷のマクシミリアン・フランツ大公がザルツブルクを訪れ、モーツァルトは歓迎のために牧歌劇「羊飼いの王」K.208を作曲し、上演しています。マクシミリアン大公は1768年に12歳のときにウィーンでモーツァルトの孤児院ミサ曲K.139を聴き大きな感動を得て、それ以来皇帝ヨーゼフ2世とともにモーツァルトを擁護していました。モーツァルトは孤児院ミサ曲以来7年間の教会音楽における自身の作曲者として成長を示すために、このオッフェルトリウムの楽譜をマクシミリアン大公に奉呈したのではないかとみられます。

 後に、マクシミリアン大公はケルン大司教・選帝侯としてボンに赴任しますが、ボンを新たな音楽の都にするために、モーツァルトの歌劇を含めた多くの楽譜がボンに持ち込まれました。ボンに新たに創設された宮廷楽団には、ビオラ奏者として若きベートーヴェンが加わりますが、ベートーヴェンは宮廷音楽家として多くのモーツァルトの作品を演奏します。この折にベートーヴェンがモーツァルトのモテットのメロディーを書き留めたとしても不思議ではありません。なお、この時代、作曲者が他の作曲者の主題を利用し作曲することはよく行われていたことですし、変奏曲の主題に他の作曲家の主題を用いることも多く行われていました。

【音楽史年表より】
1775年3月初旬初演、モーツァルト(19)、オッフェルトリウム「ミセリコルディアス・ドミニ(主のお憐れみを)」ニ短調K.222
ミュンヘンの選帝侯礼拝堂で初演される。バイエルン選帝侯マクシミリアン3世の所望に応じて、自らの対位法的力量を示すべく作曲される。(2)
この曲の中でバイオリンが度々、ベートーヴェンの交響曲第9番の終楽章の歓喜の歌の旋律をかなでる。(3)
1775年4/23初演、モーツァルト(19)、音楽劇「羊飼いの王」K.208
ザルツブルク宮廷にて演奏会形式で初演される。2幕の音楽劇、台本はメタスタージョの3幕の原作を2幕に編作したもの、編作者は不明。1775年4月に女帝マリア・テレジアの末の息子マクシミリアン・フランツ大公がザルツブルクを訪問することになり、大司教はモーツァルトに歓迎の作品の作曲を依頼した。マクシミリアン・フランツ公はモーツァルトと同年生まれであり、のちにボン選帝侯となりベートーヴェンを庇護することとなる。マクシミリアン公は1788年ボンに宮廷楽団ならびに国民劇場を新設し、ビオラ奏者となったベートーヴェンは宮廷楽団の演奏機会によってモーツァルトの歌劇などにふれることになる。(2)(4)
1794年/95年作曲、ベートーヴェン(23,24)、歌曲「愛されない男のため息-応えてくれる愛」WoO118
レチタティーヴォ、アンダンティーノ、アレグレットの「応える愛」より構成される。ゴッドフリート・アウグスト・ビュルガーの詞による。「応える愛」からの旋律は1808年に合唱幻想曲Op.80に用いられたが、交響曲第9番の「歓喜に与す」の主題旋律も想起させる。その旋律を生んだここでの歌詞「愛してくれる者の存在を知ることこそ天上の喜び」はベートーヴェンの人生の根幹をなす。(5)
1803年末出版、ベートーヴェン(33)、歌曲「人生の幸せ」(「友情の幸せ」)Op.88
ライプチヒのホフマイスター&キューネル社から出版される。歌詞者は不明、1803年に作曲される。なお、10月初めに「友情の幸せ」という別題で歌詞も異なるものがウィーンのレッシェンコール社から出版されている。ドイツ語とイタリア語の歌詞付きで出版されているが、旋律とリズムの印象から後の合唱幻想曲や第9交響曲の合唱が想起される。(5)
1808年12/22初演、ベートーヴェン(38)、ピアノ、合唱と管弦楽のための幻想曲ハ短調「合唱幻想曲」Op.80
アン・デア・ウィーン劇場でのベートーヴェンの自主演奏会で初演される。演奏は途中でズレが生じたため中断し、ベートーヴェンの怒号がホールに響き渡るという惨憺たる失敗に終わる。演奏が中断した後、曲は冒頭から再び開始されたという。合唱幻想曲は管弦楽と声楽を結び付けたという点では、第9交響曲の先駆をなす作品として重要な位置を占めるという指摘があるが、第9交響曲へ至る長い道程の一通過点見なすことができる。バイエルン王マクシミリアン・ヨーゼフに献呈される。(5)
1810年春から夏作曲、ベートーヴェン(39)、歌曲「彩られたリボンで」Op.83-3
ゲーテの詩による。(5)
1819年1/14作曲、ベートーヴェン(48)、テノールまたはソプラノ、ユニゾン合唱、ピアノ伴奏のための「さあ、友よ結婚の神を賛美せよ」(結婚歌)第1稿WoO105(Hess125)
喜びにあふれた祝婚歌。ベートーヴェンの甥カールが1816年~18年に在籍していた寄宿学校の校長ジャンナタージオの娘アンナが1819年にL・シュメアリングと結婚、祝歌として一家と親しかったシュタインが詩を書き、ベートーヴェンが曲をつけた。(5)
1823年~24年作曲、ベートーヴェン(52、53)ソプラノ、アルト、女声合唱、管楽伴奏による「盟友歌」Op.122
管楽伴奏はそれぞれ2本のクラリネット、ホルン、ファゴットによる。詩はヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ。初稿は1790年代に作曲される。(5)
1824年2月作曲、ベートーヴェン(53)、交響曲第9番ニ短調「合唱付き」Op.125
作曲を完成する。合唱の詩句シラーの「歓喜の寄す」の全篇の作曲しようとの意欲を示したのは、ウィーンに来る直前の1792年、まだボンにいたときである。つまり、最初にベートーヴェンが歓喜を唱おうとした時から32年たって交響曲として結実したのであった。(5)
1824年5/7初演、ベートーヴェン(53)、交響曲第9番ニ短調「合唱付き」Op.125
ウィーンのケルントナートーア劇場で初演される。総指揮者ベートーヴェン、実質指揮者は宮廷楽長ウムラウフ、コンサートマスターはシュパンツィヒ、独唱はSop:H・ゾンターク、Alt:K・ウンガー、Ten:A・ハイツィンガー、Bar:J・ザイペルト、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世に献呈される。当日プログラムは祝典劇「献堂式」序曲Op.124、ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)ニ長調Op.123より「キリエ」「クレド」「アニュス・デイ」、続いて交響曲第9番ニ短調「合唱付き」Op.125が初演される。(5)
【参考文献】
1.小松雄一郎訳編・ベートーヴェンの手紙(岩波書店)
2.モーツァルト事典(東京書籍)
3.カルル・ド・ニ著、相良憲昭訳、モーツァルトの宗教音楽(白水社)
4.西川尚生著・作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
5.ベートーヴェン事典(東京書籍)

SEAラボラトリ

音楽史年表記事編・目次へ 音楽史年表データベースへ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?