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音楽史年表記事編15.ベートーヴェンとリヒノフスキー侯爵夫人クリスティアーネ

 1792年、ボンからウィーンに音楽留学したベートーヴェンは、おそらくワルトシュタイン伯爵の世話であったと思われますが、リヒノフスキー侯爵家に投宿することになります。リヒノフスキー侯爵家でベートーヴェンは主人の弟のように丁重に扱われましたが、これは侯爵夫人クリスティアーネの配慮によるものでした。侯爵家では毎週金曜日には音楽会が開かれ、ここではハイドンをはじめとする音楽家や生涯の盟友となるハンガリー貴族のズメスカルなどとも交友が始まっています。侯爵家での音楽会はベートーヴェンの作品の発表の場となったばかりではなく、ベートーヴェンのピアノ演奏はウィーンにセンセーションを起こします。
 侯爵夫人に恩義を感じていたベートーヴェンは1796年侯爵夫人にチェロとピアノのためのヘンデルのオラトリオ「ユダス・マカベウス」HWV63から「見よ、勇者の帰還を」の主題による12の変奏曲ト長調WoO45を献呈し、さらに1801年にはバレエ音楽「プロメテウスの創造物」Op.43を献呈します。

 リヒノフスキー侯爵夫人クリスティアーネはプラハの名門貴族トゥーン=ホーエンシュタイン伯爵家の美人の3姉妹のひとりで、ラズモフスキー伯爵家へも姉妹が嫁いでいます。また、侯爵夫人はモーツァルトのクラヴィーアの弟子でもありました。しかし、侯爵夫人の結婚は不幸なものであったようです。マリア・テレジアが敵対するプロイセンに奪われたシュレージェンに接するシレジアの大大名であったリヒノフスキー侯爵は、ウィーン宮廷からは重用されていました。1806年、シレジアのリヒノフスキー侯爵の城を訪問したベートーヴェンは、リヒノフスキーの横柄さに我慢ができず、侯爵と激突し雨の中ウィーンに戻りますが、ベートーヴェンはこのときピアノ・ソナタ第23番ヘ短調「熱情」Op.57の楽譜を持ち歩いていたため、その自筆譜の表紙には雨に濡れたシミがついたといわれています。これ以降侯爵夫人とも疎遠になったようです。

【音楽史年表より】
11/2、ベートーヴェン(21)
ベートーヴェン、ウィーンに向けボンを出発する。(1)
1792年11月中頃まで、ベートーヴェン(21)
ベートーヴェン、ウィーンに到着する。最初の下宿はアルザー・シュトラッセにある建物の屋根裏部屋であったが、まもなく1階に移っている。ボンから出てきたばかりのこの若い音楽家に最初に注目したのは、カール・リヒノフスキー侯爵夫妻だった。当時33歳の侯爵は、モーツァルトのピアノの弟子でありパトロンでもあった。ベートーヴェンがウィーンで最初に落ち着いたアルザー・シュトラッセの家というのが、このリヒノフスキーの住まいと同じ建物だったようで、ほどなくリヒノフスキー侯爵夫妻は、彼を自宅に住まわせることになった。同家での彼は、主人の弟のように、いやそれ以上に、気位の高い高貴な客人のように扱われた。召使たちは、侯爵と音楽家から同時に呼ばれた場合には、音楽家を優先せよと命じられていた。また、毎夕4時と決まっていた侯爵夫妻のディナーには、常に彼の席が用意されていた。また、侯爵邸ではバイオリニストのシュパンツィッヒをはじめ、ビオラ奏者のヴァイス、チェロ奏者のクラフトなど、名の通った優秀な弦楽奏者を抱えており、毎週金曜日の午前にサロン演奏会が開かれるのが恒例となっていた。そこには、少数ながらウィーンの著名な音楽家や音楽通が招待され、いわば音楽情報の発信地となっていたが、ベートーヴェンが現れてからは、彼の新作が披露される場となった。それは耳の肥えた人々を驚嘆させ、特にベートーヴェン自身のピアノ演奏の衝撃は大きかった。その噂はサロンからサロンへと広まっていった。(2)
1796年5月~6月作曲?ベートーヴェン(25)、チェロとピアノのためのヘンデルのオラトリオ「ユダス・マカベウス」HWV63から「見よ、勇者の帰還を」の主題による12の変奏曲ト長調WoO45
ウィーン楽友協会に自筆譜が残っているが、使われている紙はウィーンで入手可能なイタリア紙ではなく、これらの紙はベルリンで購入され、WoO45の変奏曲は同地で完成された可能性が高い。曲は翌年の出版に際し、トゥーン=ホーエンシュタイン伯爵家の出身でリヒノフスキー侯爵カールの夫人となったマリー・クリスティアーネに捧げられている。(1)
なお、このヘンデルの主題は日本では得賞歌として表彰式に演奏される。
1801年3/28初演、ベートーヴェン(30)、管弦楽のためのバレエ音楽「プロメテウスの創造物」Op.43
ウィーンのブルク劇場においてサルヴァトーレ・ヴィガノの振付、主演で舞台上演される。バレエ音楽「プロメテウスの創造物」はベートーヴェンにとって2作目のバレエ音楽であるが、作品成立にはヨーロッパに名をはせていたイタリアの天才舞踏家サルヴァトーレ・ヴィガノのウィーン滞在が深く関わっている。ヴィガノは1797年から1803年までの4年間ウィーンに滞在しており、この時期にベートーヴェンと出会い、自ら主役を演じる新作バレエ音楽の作曲を依頼した。作曲は1800年初めから1801年春頃に行われる。第16曲は英雄交響曲の終楽章に転用される主題で始まる。曲はリヒノフスキー侯爵夫人に献呈される。(1)
【参考文献】
1.ベートーヴェン事典(東京書籍)
2.青木やよひ著・ベートーヴェンの生涯(平凡社)

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