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音楽史年表記事編34.ベートーヴェン・交響曲第1番ハ長調とマクシミリアン選帝侯

 ベートーヴェンは、1792年11月ハイドンの推薦を受けて、ウィーンへ向けて音楽留学に出発します。アルザー・シュトラッセのリヒノフスキー侯爵家に下宿したベートーヴェンは卓越したピアノ演奏によってたちまちウィーンの寵児となります。そして、作曲においてもピアノ三重奏曲第3番ハ短調Op.1の3、ピアノ・ソナタ第1番ヘ短調Op.2の1、ピアノ・ソナタ第8番ハ短調「悲愴」Op.13など革新的な創作を行い、バイオリン・ソナタなどに続き、1799年には6曲の弦楽四重奏曲Op.18を作曲すると、1800年には満を持して交響曲第1番ハ長調を初演します。ベートーヴェンはさまざまな分野の創作ののち交響曲を作曲しますが、最初の交響曲は自身をウィーン留学へ送り出してくれたボンの恩人であるマクシミリアン選帝侯に献呈することを決めていたようです。しかし、このときボンの宮廷はフランスのナポレオン軍の攻撃を受け、宮廷は消滅し、マクシミリアン選帝侯は各地を転々とした後、ウィーンのシェーンブルン宮殿近くのヘッツェンドルフに逃避していました。ベートーヴェンもこの時期にヘッツェンドルフに滞在していますので、記録は残されていませんが、マクシミリアン選帝侯に再会したものと思われます。また、ベートーヴェンはボンに残してきた2人の弟カールとヨハンをウィーンに引き取ります。
 聖職者として家族のいなかったマクシミリアン選帝侯は孤独な余生を送っていたようですが、交響曲第1番の出版を前に死去したため、ベートーヴェンは選帝侯の代わりにスヴィーテン男爵に交響曲を献呈します。モーツァルトはウィーンに出てきて、スヴィーテン男爵のもとでセバスティアン・バッハの音楽を学んでいますが、ベートーヴェンもボンで師のネーフェからセバスティアン・バッハの平均律クラヴィーア曲集を教材としてピアノを学び、平均律クラヴィーア曲集全曲を暗譜していました。オランダ生まれのスヴィーテン男爵は外交官としてベルリンなどに赴任し、バッハやヘンデルの楽譜を収集していましたので、ベートーヴェンのバッハの平均律などの演奏を大いに喜び、特別にベートーヴェンを自宅に招いたりしていました。
 ベートーヴェンは交響曲第1番では、生まれ育ったライン地方の思い出とウィーンでの作曲家としての新たな船出を誓うかのように、希望に満ちた曲にしようと作曲したように思われます。

【音楽史年表より】
1792年7月、ベートーヴェン(21)
ハイドンがロンドンからの帰途再びボンに滞在する。ベートーヴェンは1790年に作曲した「皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ」WoO87をハイドンに見せて弟子入りが許可された。(1)
11/10頃、ベートーヴェン(21)
ベートーヴェン、ウィーンに到着する。最初の下宿はアルザー・シュトラッセにある建物の屋根裏部屋であったが、まもなく1階に移っている。ベートーヴェンがウィーンで最初に落ち着いたアルザー・シュトラッセの家というのが、リヒノフスキー侯爵の住まいと同じ建物だったようで、ほどなくリヒノフスキー侯爵夫妻は、彼を自宅に住まわせることになった。(2)
1794年3月、ベートーヴェン(23)
ライン川周辺へのフランス軍の侵攻がますます頻繁となり、その影響でボン宮廷からの年金が停止され、ベートーヴェンは定収入を失う。(1)
10月、ベートーヴェン(23)
選帝侯マクシミリアン・フランツはボンを脱出し、フランス軍の占領下に置かれたその地に再びもどることはできなかった。ボンの宮廷は消滅し、この小さな都市を学問と芸術の輝かしい中心地にしようとしたマクシミリアン・フランツの夢も消え去り、ベートーヴェンもまた少年時代から名乗ってきた宮廷音楽家という身分を自動的に失うこととなった。(2)
1800年3月以前作曲、ベートーヴェン(29)、交響曲第1番ハ長調Op.21
自筆譜が消失しており、正確な成立年代は不明。4/2には初演されているので遅くとも3月には成立脱稿され、演奏会用のパート譜作りの準備がなされたものと考えられる。この交響曲は最終的にヴァン・スヴィーテン男爵に献呈されるが、当初はボンのマクシミリアン・フランツ選帝侯への献呈が予定されていた。しかし、フランス軍の侵攻により既にボンの宮廷は消滅しており、選帝侯は各地を転々としたのち、1797年からウィーンのシェーンブルン宮殿の近くのヘッツェンドルフで孤独な晩年を送り、1801年7/26に亡くなった。(3)
4/2初演、ベートーヴェン(29)、交響曲第1番ハ長調Op.21
ブルク劇場で行われたベートーヴェンの初めての自主演奏会で初演される。演奏会では交響曲第1番の他にピアノ協奏曲第1番ハ長調Op.15(改訂稿)、七重奏曲変ホ長調Op.20、ベートーヴェンのピアノ即興演奏、モーツァルトの交響曲、ハイドンのオラトリオ「天地創造」から抜粋2曲が演奏された。(1)
1801年7/26、ベートーヴェン(30)
女帝マリア・テレジアの5男でケルン大司教・選帝侯のマクシミリアン・フランツがウィーンのヘッツェンドルフで死去する。マクシミリアン・フランツはフランス軍の侵攻により、1794年ボンを離れ、それ以降ボン宮廷に帰ることはかなわなかった。(1)
11月、ベートーヴェン(30)
交響曲第1番ハ長調Op.21、17声部のパート譜がウィーンのホフマイスター社およびライプチヒのビューロー・ド・ミュジック(音楽出版社)から出版され、スヴィーテン男爵に献呈される。(1)
【参考文献】
1.ベートーヴェン事典(東京書籍)
2.青木やよひ著・ベートーヴェンの生涯(平凡社)
3.KINSKY-HALM:Das Werk Ludwig van Beethovens (G.Henle Verlag 1955)

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