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音楽史・記事編101.ミサ曲・モテット創作史

 西洋音楽史において、特に古典派期以前の宗教音楽は最も重要な分野であるものの、最も難解な分野であり、その難解さはキリスト教という宗教の本質が日本人の我々には理解が難しく、またカトリックやプロテスタントという宗派により、宗教音楽が宗派の教会に限られて演奏されてきた経緯から、欧米においても広く宗教音楽が知られることに制限があり、バッハやモーツァルトの宗教音楽が作曲されてから数十年を経て知られるようになるなど、優れた作品が世に出るまでに長い年月を要してきました。本編では宗教的なオラトリオやカンタータを除いたミサ曲やモテットなどの宗教作品について見て行きます。

 宗教音楽史はグレゴリオ聖歌に始まります。グレゴリオ聖歌は教皇グレゴリウス1世が編纂したと広く信じられてきましたが、現在では9世紀から10世紀にローマとガリア地方の聖歌を統合し成立したものと考えられています。12世紀のノートルダム楽派の時代に、単旋律のグレゴリオ聖歌から複数の声部をもつポリフォニーが成立したものと言われています。フランスのランス近郊に生まれたギョーム・ド・マショーは、ミサ曲の全曲をひとりで一貫性をもって作曲した初めての作曲家と言われ、ブルゴーニュに生まれたデュファイは西洋の中世音楽からルネサンス音楽へ転換させた音楽史上の巨匠とされます。また、イギリスの作曲家ダンスタブルは、イギリスとフランスの百年戦争の休戦時にフランスを訪れ、3度、6度の和声法を伝え、この和声法がルネサンスのポリフォニーの基礎となったと伝えられています。
 このように生まれたポリフォニー音楽様式はフランドルの作曲家によって大きく発展します。この当時、婚姻によって神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世はフランドル地方を手中に収めますが、さらに子息の婚姻によってスペイン、ハンガリーを手中に収め、孫のカール5世は神聖ローマ皇帝位の他、ドイツ王、スペイン王、ブラバント公、ブルゴーニュ公、ミラノ公、ナポリ公の地位を得て、さらに世界のスペインの植民地を手に入れ、世界帝国の皇帝となったのです。繁栄したフランドル地方はイタリアのルネサンスに対し北のルネサンスと呼ばれ、音楽においても多くの作曲家を輩出します。フランドルに生まれたオケゲムはパリに移り宮廷楽長となり、音楽史上初めてのレクイエムを作曲しています。フランス北東部に生まれたジョスカン・デ・プレはパリでオケゲムの門下に入り、その後イタリアへ渡りフランドル楽派最大の作曲家となっています。また、ラッソはイタリアに渡り、さらにミュンヘン宮廷楽長となり、ウィーン楽派の始祖となったものと見られます。一方のイタリアではトレントの公会議で行きすぎた世俗音楽はカトリック教会にふさわしくないのではないかとの認識から、世俗音楽すなわちポリフォニー音楽を教会から排除しようとの議論が行われました。しかし、ローマに生まれたパレストリーナによってポリフォニー音楽が認められ、パレストリーナは宗教音楽の父と呼ばれますが、ポリフォニーを守ったことは音楽史における救世主と呼んでもよいくらいの功績と思われます。また、1570年には教皇ピウス5世によってローマ典書が交付され、ミサ曲の典礼文が定められ、以降のレクイエムも含めてカトリックのミサ曲はすべてラテン語のローマ典礼文によってキリエ、グロリア、クレド・・・の作曲がされて行くことになります。
 神聖ローマ帝国の繁栄の中で、1517年ドイツのルターによって宗教改革が始まり、プロイセンやスカンジナビアなどの旧ゲルマニア地方の諸侯は神聖ローマ帝国と敵対して行きます。ローマ・カトリック教会から分離したプロテスタント・ルター派では独自の音楽が生まれます。ルター派はカトリック教会の権威主義的な政策に反対し、ルターやプレトリウスによって会衆のための讃美歌であるコラールが多く生まれ、これらのコラールによって後のバッハの教会カンタータが作曲されて行くことになります。イギリスでは国王ヘンリー8世の離婚問題が発端となり、ローマ・カトリック教会から分離し英国国教会が成立します。カトリック教徒であったイギリスの作曲家バードはカトリック教徒に対する弾圧に耐えながらも、王室礼拝堂のための作曲を続け、ブリタニア音楽の父と呼ばれています。
 カトリックとプロテスタントとの対立は30年戦争という泥沼の宗教戦争を引き起こします。1648年ミュンスターでヴェストファーレン条約が締結され、オーストリア・ハプスブルク帝国は敗北し帝国内諸国に対する統率権を失います。ドイツ国内では800万人の人命が失われるというヨーロッパ史上最大の戦争でドイツ、特に中央部地域が荒廃する中、イタリアではバロック音楽が始まり、ドイツではヘンデル、バッハという音楽の巨匠が誕生します。ヘンデルはイタリアへ渡り音楽を学び、ハノーファーの宮廷楽長となり、イギリスへ渡りイギリス国王となったハノーファー選帝侯のもとアンセムなどの英国国教会のための音楽を作曲します。しかし、ヘンデル自身はルター派から改宗することはありませんでした。一方のバッハはルター派の音楽のほかシュッツがドイツにもたらしたイタリア音楽や北ドイツのオルガン音楽、フランス音楽を学び、多くのカンタータを作曲し、ミサ曲ではマタイ受難曲やロ短調ミサ曲を作曲しています。ロ短調ミサ曲はカトリックのラテン語典礼に基づいたものですが、ドレスデンのザクセン選帝侯のポーランド統治のためのカトリックへの改宗が作曲の理由のようです。また、1628年にべネヴォリ(ビーバー)がザルツブルクで上演した祝典ミサ曲のように53声部という巨大な声部を持つミサ曲も現れています。
 モーツァルトはザルツブルクで多くのミサ曲やモテットを作曲し、ベートーヴェンは大曲ミサ・ソレムニスを作曲しています。この大荘厳ミサ曲はバッハのロ短調ミサ曲、モーツァルトのミサ曲ハ短調と合わせて3大ミサ曲と呼ばれています。また、モーツァルトはザルツブルクのミヒャエル・ハイドンの荘厳なレクイエムの影響を受け未完のレクイエムを作曲していますが、このレクイエムもヴェルディのレクイエム、フォーレのレクイエムと合わせて3大レクイエムと呼ばれています。
 ヨーロッパにおける宗教音楽の創作史を見てみますと、ローマ・カトリック教会の宗教音楽により、古代から現代までルター派の分離などがあるものの、一つの大河のように貫かれています。ローマ帝国時代から続くカトリック教会が2000年に及ぶヨーロッパを統率してきており、音楽においてはカトリック教会のもとグレゴリオ聖歌から、ポリフォニー、対位法、平均律、和声法など多くの様式が発展してきています。しかし、古い様式は次々と新しいものを吸収しながら次の様式に受け継がれており、例えば平均律が現れたから古い純正律を否定するのではなく、転調では平均律を使い、和声では純正律を使うように、音楽は柔軟に変容しさまざまな様式を受け継いできたように思われます。

【音楽史年表より】
1502年出版、ジョスカン・デ・プレ(57)、聖母マリアのためのモテトゥス「アヴェ・マリア」
ベネツィアのペトルッチから出版される。ジョスカン・デ・プレはフランドル楽派最大の音楽家であり、ルネサンス時代の最高峰に位置する作曲家であり、ミラノ大聖堂、ミラノ宮廷、ローマ教皇庁、フェラーラ宮廷やフランスの国王宮廷、フランドル宮廷などに足跡を残す。(1)
1567年出版、パレストリーナ(42)、教皇マルチェルスのミサ曲
初版がローマで出版され、スペインの国王フェリペ2世に捧げられる。ローマ近郊のパレストリーナに生まれたジョヴァンニ・ダ・パレストリーナは100曲以上のミサ曲を作曲し、その多くは4声の作品である。パレストリーナはルネサンス音楽の代表的作曲家であり、宗教音楽の父と呼ばれる。あらゆる作曲技法を駆使し、フランドル楽派が好んだ定旋律ミサや自由な主題によるものも見られる。(2)
トレントの宗教会議であらゆる多声音楽が教会から排除されようとしたとき、パレストリーナがこの曲を作曲して、ポリフォニー音楽が宗教性と両立しうることを証明して、教会音楽の危機を救ったという伝説がある。(1)。
1575年出版、バード(32)、17曲のモテット集「カンツィオーネ・サクレ」
タリスとともに出版する。1757年バードはかつての師であり、チャペル・ロイヤルの同僚となったトマス・タリスと共に、エリザベス1世から楽譜印刷と販売の21年間にわたる独占権が与えられ、このモテット集を最初に出版する。ウィリアム・バードはエリザベス王朝を代表する音楽家で、イギリス音楽の黄金時代を築きあげた巨匠で、ヘンリー8世からエリザベス1世に至るイギリス宗教改革の渦中に生きたが、バードの音楽はイギリスにおける最後のカトリック音楽となった。(1)
1724年12/25初演、バッハ(39)、ロ短調ミサ曲 BWV232 第3部サンクトゥス
第3部サンクトゥスが初演される。ザクセン選帝侯アウグスト強王はポーランドとドイツの2国における王朝的野心を満たすためには、後の後継者はカトリックである必要があるとし、1722年にはアウグスト強王の嗣子フリードリヒ・アウグスト2世がカトリックに改宗したことが公に発表された。ザクセンの人々は憤慨し、反発が起きた。アウグストの妻クリスティアーネは夫の改宗には従わず、熱烈なルター派であり続けた。彼女はポーランドでの夫の戴冠式にも参加せず、ドレスデン郊外で孤独な生活を送り、その頑なな態度には賛否両論があった。(Wikipedia、アウグスト2世ポーランド王より)
ザクセン宮廷作曲家の地位を望んでいたバッハは、このような背景のもと、カトリックのラテン語典礼によるミサ曲を作曲したものと見られる。(3)
1783年10/26初演、モーツァルト(27)、ミサ曲ハ短調K.427
ザルツブルクの聖ペーター教会で初演される。2つのソプラノパートのうち1つは新妻のコンスタンツェ、もう1つはザルツブルク宮廷のソプラノ・カストラート歌手が受け持ち、モーツァルトの指揮のもと、聖ペーター教会合唱団および宮廷楽団の協力を得てこのミサが奉じられたことが、モーツァルトの姉ナンネルの日記から読み取れる。(4)
1823年3/19献呈、ベートーヴェン(52)、ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)ニ長調Op.123
ベートーヴェンはウィーンに戻っていたルドルフ大公のもとに完成させたばかりの献呈譜を持参する。大司教就任式からはすでに3年経過していた。(5)
おそらく、ベートーヴェンは苦難の淵から救われた者の神への感謝の歌を、生涯の総決算として遺したいと考えたに違いない。それはオルミュッツの大司教に任ぜられたルドルフ大公の叙任式を飾ろうという現実的目標を持つが、この作品を単なる機会音楽などと見ることはできない。ベートーヴェン自身、この作品を自分の最大の作品と言っているが、一方で彼は、作曲中のキリエの冒頭の楽譜の余白に「心より出ず、願わくは再び心にいたらんことを!」と書きつけている。そこには、教会向けの典礼音楽の枠を超えて、1個の人間の敬虔な心が、同じように敬虔な者の心に届き、その祈りをさそい出したいという願いが込められている。(6)
1888年1/16初演、フォーレ(42)、ソプラノ独唱と合唱、管弦楽のための「レクイエム」ニ短調Op.48
初稿がパリのマドレーヌ寺院において建築家ルスファシェの葬儀に際して、フォーレ自身の指揮で初演される。現在演奏される管楽器を加えた第3稿は1900年5月にリールで初演され、同年7月パリ万国博覧会で演奏され大成功を収める。(7)

【参考文献】
1.最新名曲解説全集(音楽之友社)
2.ブノワ他著・岡田朋子訳・西洋音楽史年表(白水社)
3.バッハ事典(東京書籍)
4.モーツァルト事典(東京書籍)
5.ベートーヴェン事典(東京書籍)
6.青木やよひ著・ベートーヴェンの生涯(平凡社)
7.ニューグローヴ世界音楽大事典(講談社)

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