音楽史年表記事編19.古典派交響曲の成立
1607年にモンテヴェルディがイタリアのマンドヴァでオペラ「オルフェーオ」を初演し近代オペラを創始しましたが、その後イタリアではベネツィア、ナポリを中心にオペラは全盛期を迎えます。イタリアオペラは急緩急の序曲で開始されましたが、1730年頃にはミラノのサンマルティーニはオペラの序曲を単独で演奏するようになり交響曲という分野が始まります。なお、協奏曲分野ではすでに1710年頃には、トレッリにより協奏曲様式が、コレッリにより合奏協奏曲様式が創始されています。
古典派交響曲の特徴としてソナタ形式がありますが、ソナタ形式における主題の提示や展開には転調や対位法が必要となります。1722年のバッハの平均律クラヴィーア曲集の作曲や1725年のフックスの対位法理論書の出版により、ソナタ形式成立の条件が整った時期にシンフォニーが作曲されるようになると、一気に人気が高まり、前期古典派の作曲家は爆発的といえるほど多くのシンフォニーを作曲します。
1800年にはベートーヴェンが第1交響曲ハ長調Op.21を初演しますので、わずか70年ほどで古典派交響曲様式が確立され、完成されます。その成立過程は複雑ですが、その概要を見て行きましょう。
イタリアでシンフォニーが作曲されるようになると、ドイツ、オーストリアなどの作曲家がイタリアを訪れ、その様式を学びます。イタリアのシンフォニーではすでに2つの主題やその展開などが行われていました。前期古典派の作曲家はたいへん多作でしたが、北ドイツのグラウンは100曲の交響曲を作曲したとされ、ウィーンのデュッタースドルフは150曲の交響曲を、またボヘミアの作曲家ヴァンハルは73曲の交響曲を作曲したとされます。
ソナタ形式の形を整えたのは、ギャラント様式や多感様式で作曲を行った大バッハの次男エマヌエル・バッハといわれています。それ以前のソナタでは形式が決まっていませんでしたが、エマヌエル・バッハは一つの楽章の構成方法として、2つの主題を順次出し、その2つを自由に変形し、再びもとの2つを順次出すという、提示部・展開部・再現部という合理的な形を考えました。しかも、提示部では2つの主題の調性は異なり、再現部では同じ調性で現れ、対立から調和へという様式をとります。マンハイム楽派のシュターミツらは、エマヌエル・バッハのソナタ形式を管弦楽に用い、交響曲にソナタ形式を取り入れたようです(1)。また、マンハイムではpやfの強弱法が交響曲にとり入れられたとされます。
トリオ付きメヌエット楽章の創設は、異説はあるもののウィーン楽派のモンといわれています。ウィーンのメヌエット楽章をマンハイムに伝えたのはウィーンのホルツバウアーといわれています。一方で、マンハイムはフランスに近く、フランスのリュリの緩急緩のフランス風序曲に舞曲を加えたフランス組曲の影響があったことが考えられます。一般にフランス組曲のメヌエットにはトリオが付いていませんが、メヌエットⅠ-メヌエットⅡ-メヌエットⅠのように演奏されることもあり、メヌエットⅡがトリオとなった可能性も考えられます。また、ウィーン楽派のドルドニエスによって第1楽章に序奏が付けられたとされます。
このように、複雑な経緯をたどりウィーン古典派の交響曲様式が成立して行きました。ハイドンは、初期の間はイタリアのシンフォニア様式、フランス序曲様式、メヌエット付4楽章様式、ディヴェルティメント様式、またバロックの教会ソナタ様式などさまざまな交響曲を試しています。そして、メヌエット楽章を伴う4楽章の交響曲様式の形式を確立し、この形式で交響曲を作曲するようになるのは、1765年頃からです。ハイドンは楽器の用法においても革新的です。特にホルンの扱いにおいては、交響曲第31番ニ長調「ホルン信号」のように4本のホルンがうなりを上げ圧倒的な曲作りを行い、また交響曲第51番変ロ長調第2楽章ではホルン特有の重低音を響かせたりします。また、各楽器の独奏がたびたび用いられ、コントラバスまでが独奏を行います。
モーツァルトはイタリアのシンフォニア様式で交響曲を学びましたので、晩年のプラハ交響曲ニ長調K.504でも3楽章の交響曲を作曲しています。また、おそらくセバスティアン・バッハの対位法を学んだ影響でしょう、最後の交響曲となる交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551の第4楽章ではフーガとソナタ形式の融合を交響曲で試み、壮大な音楽を生み出しました。
ベートーヴェンは古典派交響曲の最高傑作である9曲の独創的な交響曲を作曲し、ロマン派の作曲家に大きな影響を与えることになります。
【音楽史年表より】
1765年5月から9/13作曲、ハイドン(33)、交響曲第31番ニ長調「ホルン信号」Hob.Ⅰ-31
1763年8月から12月までの間、1765年5月から66年2月までの期間、エステルハージ侯の楽団には4人のホルン奏者が勤務していた。ホルン4本を持つ交響曲4曲(第13番ニ長調、第31番ニ長調、第39番ト短調、第72番ニ長調)と新発見されたディヴェルティメント ニ長調はすべてこの時期に作曲された。この曲に冠されている「ホルン信号」または「狩場にて」という呼び名は19世紀になって付けられたものと考えられる。第1楽章は軍隊用のトランペット信号で開始され、そのあとに郵便ホルンの旋律が続く。1788年に出版されたパリのシベール版の楽譜には「シンフォニア・コンチェルタンテ」という表題に続いて「ニュルンベルクの郵便ホルン」という副題が記入されていた。第4楽章では通奏を除くすべての楽器が独奏者として登場する変奏曲を置いている。そして、フィナーレのエンディングには第1楽章冒頭のホルン信号が現れる。(2)
1773年初め、ハイドン(40)、交響曲第51番変ロ長調Hob.Ⅰ-51、(3)
1786年12/6作曲、モーツァルト(30)、交響曲第38番ニ長調「プラハ」K.504
翌87年1/19にプラハで初演されたとされているが、最近の研究ではこの年の待降節にウィーンで催された予約演奏会用に作曲され、プラハ行きの前にすでに初演されていたという説が提起されている。三大交響曲以前の交響曲のなかでもっとも大胆に対位法をとりいれた作品で、とりわけ第1楽章の複雑なテクスチュアは当時の聴衆や演奏家を驚かせたにちがいない。バッハ、ヘンデル体験から始まった対位法への傾斜が交響曲の分野で初めて明確にあらわれた作品といえよう。(4)(5)
1788年8/10作曲、モーツァルト(32)、交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551
モーツァルトは前作のト短調交響曲ではフィナーレに向かってその激情を強め、逃れることのできない深淵を開示して曲を終える。そしてその半月後にモーツァルトは伽藍建築にも比される壮大なハ長調交響曲を完成する。この作品はJ・P・ザロモン以来「ジュピター」と呼ばれ親しまれてきた。堂々として輝かしく、堅固にして緻密なあたかも王者の風格にたとえられる形式と書法を備えたこの作品を表すのに、後世の呼称とはいえ、これほど適切な愛称はない。(6)
【参考文献】
1.堀内敬三著・音楽史(音楽之友社)
2.作曲家名曲解説ライブラリー・ハイドン(音楽之友社)
3.中野博詞著・ハイドン交響曲(春秋社)
4.西川尚生著・作曲家・人と作品・モーツァルト(音楽之友社)
5.モーツァルト事典(東京書籍)
6.作曲家名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
SEAラボラトリ
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