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音楽史年表記事編43.ベートーヴェンの「フィデリオ」と英雄ラファイエット

 パリ・オペラ座の後ろにデパート・ラファイエットがありますが、デパートの名前になるほどのフランスの英雄であるラファイエットは波乱万丈の人生を歩んでいます。フランス革命後、4年間に渡ってオルミュッツに幽閉され、ナポレオンによって解放されるのですが、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」の作曲にも影響があったと見られます。
 フランスの名門軍属の侯爵家に生まれたラファイエットはフランス軍に入隊し、2度にわたりアメリカ大陸に渡り、アメリカ独立軍上級指揮官としてイギリスと対戦しました。フランス革命では三部会議員として、人権宣言の草稿を起案しますが、ラファイエットの改革案は国王制度を維持した議会民主制度でした。なお、フランス国旗のトリコロールはラファイエットの発案によるものとされています。
 ラファイエットはフランス国民軍の指揮官の地位にありましたが、1791年6月の国王一家のヴァレンヌ逃亡事件の責任を問われ、さらに革命急進派との対立からシャン・ドゥ・マルスの虐殺事件により窮地に陥り、結局はフランスを離れオーストリアに亡命をはかろうとするものの、オーストリア軍に捕らえられオルミュッツの牢獄に収監されました。
 ラファイエットは1797年、イタリアを制圧したナポレオンによって解放されます。この時期、ベートーヴェンはウィーンに着任したフランス全権大使ベルナドット将軍と親交を結び、フランスの共和制の理念に強くひかれていましたので、ベルナドット将軍によってオルミュッツのラファイエットが釈放されたことには強い印象を受けていたものと見られます。

 ベートーヴェンは1804年10月頃、この年の初めに夫を亡くしたヨゼフィーネに再会しピアノのレッスンを始めていますが、急速に思いを寄せるようになり、構想していた歌劇「レオノーレ・・・夫婦の愛の勝利」のヒロインであるレオノーレをヨゼフィーネに重ねて作曲したようです。この歌劇の原作はフランスのブイイによるもので、実際にあった事件を題材にしたものとされます。オルミュッツのラファイエットの解放はベートーヴェンに歌劇作曲の動機になりますが、この歌劇のテーマとなった「夫婦の愛の勝利」は、ベートーヴェンにとって作曲における主要なテーマとなって行きます。
 歌劇は「フィデリオ」と題名を変更し初演されますが、不評に終わります。翌年には親友のシュテファン・ブロイニングによって台本が改訂され、第2稿が初演されます。しかし、これも失敗に終わります。ベートーヴェンは夫婦の愛の勝利の成就を願っていましたので、オペラの代わりに「夫婦の愛の勝利」をテーマとした3曲セットの交響曲を構想します。第1曲にはヨゼフィーネへの愛の芽生え、第2曲はヨゼフィーネが生まれ育ったハンガリーのマルトンヴァシャールの大自然を描いたヨゼフィーネのための交響曲、そして第3曲にはフィナーレで夫婦の愛の勝利を高らかに歌い上げる3曲セットの交響曲、すなわち交響曲第4番変ロ長調Op.60、交響曲第6番ニ長調「田園」Op.68、交響曲第5番ハ短調「運命」Op.67を作曲することになったのではないかと考えられます。

【音楽史年表より】
1797年10月、ベートーヴェン(26)
1796年アルプスを越えたナポレオン軍はサルディニアを降伏させ、オーストリアの5ヶ国連合軍に壊滅的打撃を与え、さらにウィーンに迫る。1797年10月オーストリア側から和議の提案が出され、カンポ・フォルミオ平和条約が締結される。これによってオーストリアはイタリアでの多くの権益を失うことになる。また、ナポレオンはオルミュッツの牢獄につながれていたフランスの著名な軍人・政治家ラファイエット侯爵の釈放要求を行う。ラファイエットは高位の貴族でありながらアメリカ独立戦争に自ら参加して自由と人権の思想をヨーロッパに持ち帰り、フランス革命に際しては国民軍司令官として活躍したのち、人権宣言の起草者となった伝説的英雄であった。だが、立憲王政を主張したため革命の中で孤立し、オーストリア軍に捕らえられすでに4年間も獄中にあった。大義に感じやすいベートーヴェンはその境遇に心を痛め、やがてそれが「フィデリオ」の中に織り込まれることになるのだが、この時のナポレオンの釈放要求に、我が意を得た思いだったに違いない。(1)
1804年10月、ベートーヴェン(33)
ベートーヴェン、この頃未亡人となっていたヨゼフィーネ・ダイムと再会し、ピアノ指導を通じて次第に親密になる。(2)
1805年3月以前、ベートーヴェン(34)、歌曲「希望に寄せて」第1作Op.32
クリストフ・アウグスト・ティートゲの詩による。オペラ「レオノーレ」第2幕の三重唱作曲中に、おそらく第2幕で歌われる「希望」の光りに満たされて書かれたと思われる。この歌曲は1804年に夫を亡くしていたダイム伯爵夫人ヨゼフィーネにささげられた。(2)
3/24、ベートーヴェン(34)
ダイム伯爵未亡人ヨゼフィーネは母親に宛てた手紙で「素敵なベートーヴェンが私に愛らしいリートを贈ってくれました。詩集『ウラーニア』から選んだ『希望に寄せて』によるリートを私のために作曲してくれました」と喜びを語る。(3)
6月下旬~9月、ベートーヴェン(34)
ベートーヴェン、ウィーン郊外のヘッツェンドルフに滞在する。その間、しばしばウィーン市内に戻ることもあった。また、この村に住んでいるヨゼフィーネの家を訪ねることもあった。近隣のシェーンブルン宮殿の庭園にある木陰のテーブルで何時間も作曲に没頭しているベートーヴェンの姿がしばしば見られた。(3)
夏頃、ベートーヴェン(34)、歌劇「フィデリオ(レオノーレ、あるいは夫婦愛の勝利)」第1稿Op.72
原作小説はジャン・ニコラ・ブイイの「レオノール、あるいは夫婦の愛」、ブイイはフランス革命下にトゥールの革命検察官の職にあった1793年から翌94年にかけて経験した実際の事件にヒントを得て、小説を書き下ろす。ベートーヴェンは1803年3月からアン・デア・ヴィ―ン劇場の2階の一室に弟カールと共に移り住み、シカネーダーの台本によるオペラ「ヴェスタの火」に取り組むが、これを断念放棄する。この時期にウィーンで大きな成功を収めていたケルビーニのオペラ「ロドイスカ」や「二日間」の台本作家ブイイの手になる「レオノール、あるいは夫婦の愛」を知る。ベートーヴェンはこの原作によるオペラが既に存在していることを承知のうえ、ドイツ語翻訳で作曲することを望み、その翻訳を友人の法律家で宮廷秘書官と宮廷劇場支配人をしていたヨーゼフ・ゾンライトナーに依頼する。ゾンライトナーのリブレットが完成する1804年初め頃には早くも作曲に着手し、1805年夏頃までにほぼ全曲を完成させた。(2)
【参考文献】
1.青木やよひ著・ベートーヴェンの生涯(平凡社)
2.ベートーヴェン事典(東京書籍)
3.平野昭著・作曲家・人と作品 ベートーヴェン(音楽之友社)

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