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音楽史年表記事編85.ウィーン・グラーベンのトラットナー館

 1782年26歳のモーツァルトはシュテファン大聖堂でコンスタンツェと結婚し、ウィーン中心部のコールマルクトやユーデンプラッツなどに住み、1783年にコンスタンツェとともにザルツブルクへ帰省しウィーンに戻ると、1784年1月ウィーンの中心部グラーベンのトラットナーホーフの4階に転居します。そして、早速「自作品目録」の作製をはじめ、またトラットナーホーフを演奏会場とする予約演奏会を開催します。モーツァルトとコンスタンツェの結婚は父レオポルトや姉のナンネルから祝福されたわけでありませんでしたが、ザルツブルク最後の夜には聖ペーター教会でミサ曲ハ短調K.427を奉納します。モーツァルトはこの奉納ミサ曲の上演により、音楽史上初めてのフリーランスの作曲家としての決意を新たにしたように感じられます。
 トラットナーホーフは出版者トラットナーが建設した巨大な複合ビルで、集合住宅や数百人収容の演奏会が可能な集会所を併設しており、モーツァルトはここを予約演奏会場とし、予約演奏会では毎回新作のクラヴィーア協奏曲を演奏するなど多忙な日々を送ります。トラットナーホーフではクラヴィーア協奏曲第15番変ロ長調K.450、クラヴィーア協奏曲第16番ニ長調K.451が初演され、モーツァルトのもっとも優れた傑作であるクラヴィーア協奏曲第23番イ長調K.488、クラヴィーア協奏曲第25番ハ長調K.503も初演された可能性が大きいとされています。
 予約演奏会の開催により安定した収入を得られるようになったモーツァルトは、シュテファン大聖堂の近くの高級住宅(現在のモーツァルトハウス)に移り、満を持して歌劇「フィガロの結婚」の作曲に取りかかります。この間、モーツァルトは当時ヨーロッパ最高の作曲家とされていたヨーゼフ・ハイドンと交流し、お互いの弦楽四重奏曲の演奏などを通じて大きな影響を受け、古典派期における最高傑作の歌劇、クラヴィーア協奏曲、弦楽四重奏曲や弦楽五重奏曲などの傑作を作曲して行きます。ハイドンもモーツァルトの音楽から大きな影響を受け、ハイドンとモーツァルトの温かい友情はモーツァルトが亡くなるまで続きます。また、モーツァルトの歌劇や弦楽四重奏曲は後のベートーヴェンの創作にも大きな影響を与えています。

【音楽史年表より】
1784年1/23、モーツァルト(27)
モーツァルト、ウィーンの中心地グラーベンのトラットナーホーフの4階へ引っ越す。トラットナーホーフ(トラットナー館)はウィーンの出版社トラットナーがグラーベンに建てた巨大な建物でトラットナーの自宅と書店のほか、数多くの店舗や600人を収容できる集合住宅を備えていた。この建物の中にあるカジノ(今日の集会所やクラブに近いもの)はさまざまな催しの会場として使われており、モーツァルトもここを自分の予約演奏会の会場に選んだ。なお、トラットナー夫人はモーツァルトのクラヴィーアの弟子であった。(1)
2/9作曲、モーツァルト(28)、クラヴィーア協奏曲第14番変ホ長調K.449
モーツァルトは1784年2月から「自作品目録」を作り始める。これは作曲家としての活動を再確認し、自作品を記録に留めておこうとするモーツァルトの積極的な態度の現れととれよう。以後、作品の記入は死の直前まで続くが、その巻頭を飾るのがこの変ホ長調協奏曲である。この協奏曲はバルバラ・フォン・プロイヤーのために作曲された。バルバラはウィーン駐在のザルツブルク宮廷連絡官ゴッドフリート・フォン・プロイヤーの娘で、1784年から85年にかけてモーツァルトにクラヴィーアと作曲を師事していた。(1)
3/15作曲、モーツァルト(28)、クラヴィーア協奏曲第15番変ロ長調K.450
この協奏曲ではオーケストラは大規模となり、独奏クラヴィーアにも華やかで高度な演奏技法を要するパッセージが与えられ、オーケストラといっそう密に関わりあっている。従来の協奏曲が持つサロン的性格を脱して、交響的響きが追及され、とりわけ管楽器群の活躍は目覚ましく、主題を先導し、独自のパートをもって積極的に関わっていくのは注目に値する。創作の過程においても遂行が重ねられたらしく、自筆譜にも多くの訂正や補筆が認められるが、モーツァルトはK.450をもってクラヴィーア協奏曲のジャンルで新たな一歩を踏み出したといってよい。(1)
3/17、モーツァルト(28)
第1回トラットナー予約演奏会が開催される。予約者は174名もおり、予約者名簿にはウィーンの名だたる貴族や名士が名前を連ねた。クラヴィーア協奏曲第14番変ホ長調K.449、クラヴィーア協奏曲第15番変ロ長調K.450がおそらく演奏された。(2)
3/24初演、モーツァルト(28)、クラヴィーア協奏曲第15番変ロ長調K.450
モーツァルト自身のクラヴィーア独奏により、ウィーンのトラットナー館における第2回予約演奏会において初演される。(2)
3/31初演、モーツァルト(28)、クラヴィーア協奏曲第16番ニ長調K.451
ウィーンのトラットナー館における第3回予約演奏会において初演される。この演奏会では第14番変ホ長調K.449、第15番変ロ長調K.450も演奏された。(2)
9/21、モーツァルト(28)
モーツァルト夫妻の2人目の男子が誕生し、名付け親となったトラットナーホーフの持ち主トーマス・フォン・トラットナーの名をとってカール・トーマスと名付けられる。カール・トーマスはウィーンとプラハの学校に通った後、20歳頃からミラノで集中的に音楽を学んだが、音楽の道はあきらめ、1810年にミラノの役人となり、同地で生涯を終える。(2)
9/29、モーツァルト(28)
モーツァルト、現モーツァルトハウス(旧フィガロハウス)に移る。(2)
1784年10/14作曲、モーツァルト(28)、クラヴィーア・ソナタ第14番bハ短調K.457
1785年作曲の幻想曲K.475と対をなす。この2曲は1785年12月にウィーンのアルタリア社から出版され、モーツァルトの当時の家主夫人であり、一時期はモーツァルトのクラヴィーアの弟子でもあったテレージア・フォン・トラットナーに献呈される。(2)
1786年3/2作曲、モーツァルト(30)、クラヴィーア協奏曲第23番イ長調K.488
3月から4月にかけて3回の予約演奏会が開かれ、第23番イ長調K.488と第24番ハ短調K.491が四旬節の演奏会の機会に作曲される。(1)(2)
1786年12/5初演?、モーツァルト(30)、クラヴィーア協奏曲第25番ハ長調K.503
父レオポルトの書簡によると、待降節シーズンには4回の予約演奏会が企画されていたらしいが、ひょっとするとこの協奏曲は12/5にトラットナー氏のカジノにおける音楽会で初演されたのかもしれない。(2)

【参考文献】
1.作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
2.モーツァルト事典(東京書籍)

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