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音楽史年表記事編66.イタリア・オペラ創作史

 音楽史においてバロック期初期に現れたオペラは音楽史の本流となり、古典派期に交響曲等の管弦楽曲がその本流を二分します。しかし、欧米においては今なおオペラがその本流を形成しています。日本においてはオペラへの理解が進んでいない状況ですが、その原因は日本人にとって西洋文化の本質の理解が難しいことと、オペラ台本の翻訳の難しさにあるように思われます。例えばモーツァルトの名作である「フィガロの結婚」では、重唱においてそれぞれの歌手がそれぞれの思いを語ります。これを一度聞いて理解することは難しく、繰り返し聴くことによってその状況が理解でき、その状況における音楽のすばらしさを理解することになります。台本言語を理解できない日本人にとっては翻訳台本が頼りになるわけですが、翻訳台本はなるべく原本に忠実であるべきと思われます。翻訳によって台本作家や作曲家の意図するものを損なうことがあってはならないと思われます。おそらくそのようなことから欧米の歌劇場では翻訳を行わず原語上演を行うことが主流となっているようです。
 それでは、音楽の母国であるイタリアのオペラ創作史を見て行きましょう。なお、本編のイタリア・オペラは、台本がイタリア語であるオペラを意味しますので、オーストリーやフランス、イギリスなどで初演されたイタリア語によるオペラを含みます。
 近代オペラはモンテヴェルディによって始められました。バロック期においてはイタリアのベネツィアやナポリを中心に爆発的に普及し多くのオペラが上演されました。それらはカストラートと呼ばれる男性歌手が主役を務めるため、現代においてほとんど上演されることはありません。その中で今日でも上演されているバロックオペラは、ロンドンで初演されたヘンデルのオペラでしょう。ヘンデルはイタリアで音楽修業を積み、イギリスにイタリア・オペラをもたらしました。バロック期の多くのオペラはギリシャ神話を台本としています。例えばウィーン皇帝の婚礼祝賀で上演されたチェスティの「黄金の林檎」は次のような筋書きです・・・ゼウスが開いたぺーレウスとテティスの結婚の祝宴に招かれなかった争いの女神エリスは、宴の最中に黄金の林檎を投げ入れた。黄金の林檎には「最も美しい女神に」と書かれていた。3人の女神、ヘレネ、アテナ、アフロディーテがこの林檎を自らに相応しいものとして要求した・・・
 また、バロック期にはペルゴレージの幕間劇である「奥様女中」が、単独でも上演されるようになりオペラブッファの起源となりました。
 古典派期にはウィーンの宮廷詩人のメタスタージョによってオペラセリアの様式が確立され、オペラはセリアとブッファに2分されます。メタスタージョのオペラセリアはオペラから喜劇的要素を排除し皇帝を讃美する構成となっています。そして、グルック、ハイドン、モーツァルトによってオペラ様式は変革を遂げることとなります。モーツァルトは古典派期のオペラセリアの最高峰である「イドメネオ」を作曲し、またブッファでは台本作家のダ・ポンテと組んだ最高傑作の3つのオペラ「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」を作曲します。オペラ史において人間の情感の表出という面ではモーツァルトを超える作曲家はいないと言われています。
 偉大なイタリアオペラ作曲家モーツァルトの後を継いだのは、ロッシーニです。歌劇「試金石」でオペラ作曲家として名をなしたロッシーニは、歌劇「タンクレーディ」でヨーロッパの歌劇場を席巻します。宮廷楽長サリエリからイタリア歌曲を習っていたシューベルトはウィーンでロッシーニのタンクレーディを聴き、おそらくアメナイーデの美しいアリアに感動し、初めて本場イタリアの歌曲に触れて以降、名作歌曲を次々と生み出して行きます。
 また、ロッシーニは作曲家の報酬に関する改革を行いました。ロッシーニは興行師から作曲した楽曲の所有権を奪い取り、これによってオペラ等の上演は作曲家の権限に移るとともに、作曲家は作曲料以外に上演権料を得ることとなります。パリに移ったロッシーニはドニゼッティやベッリーニをパリに呼び寄せオペラを上演させるなど、後輩の作曲家を経済的に助成し、さらに作曲家の報酬改善は以降のロマン派の作曲家輩出に大きく貢献します。
 1842年3月、ヴェルディはミラノで歌劇「ナブッコ」を初演し、イタリア国民から圧倒的な支持を得て国民的歌劇作曲家となります。そして、ヴェルディによってイタリア・グランドオペラの基盤が作られ、現在でもヴェルディのオペラは世界の歌劇場の最も人気の演目となっています。更にプッチーニの「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」によってイタリア・オペラは黄金期を迎えます。
 プッチーニは未完の「トゥーランドット」を残して亡くなります。モンテヴェルディの「オルフェオ」に始まったオペラ史は「トゥーランドット」で終焉を迎えることとなります。既に娯楽の主役は映画に移りつつあり、歌劇の作曲様式は映画音楽作曲家に受け継がれて行くことになりました。そして、各歌劇場では名作オペラを、美術館で名作絵画を鑑賞するように、芸術作品として上演するようになります。(1)

【音楽史年表より】
1607年2/24初演、モンテヴェルディ(39)、歌劇「オルフェオ」
マントヴァの公爵の宮殿で初演される。「オルフェオ」はモデルとなった1600年のヤーコポ・ペーリの「エウリディーチェ」(現存する最古のオペラ)とは異なり、王侯の祝典のために作曲されたものではなく、マントヴァ宮廷における1607年の謝肉祭シーズンの余興のひとつとして書かれた。(2)
ストリッジョの台本によるモンテヴェルディの最初のオペラ「オルフェオ」では、器楽間奏曲(シンフォニア)、レチタティーヴォ、マドリガーレ風書法による合唱が交互に現れる。また、合唱の一部には舞踏を伴い、悲壮的なレチタティーヴォの多くがアリオーソとなって活気づくこと、楽器編成が多様なことなどが特徴となっている。(3)
1786年5/1初演、モーツァルト(30)、歌劇「フィガロの結婚」K.492
ウィーンのブルク劇場で初演される。・・・ハイドンのオペラ「報いられたまこと」Hob.ⅩⅩⅧ-10、1780の第1幕と第2幕についている大きなフィナーレのことが頭にあったモーツァルトとダ・ポンテは同様に大型の、いや、できればもっと輻輳したフィナーレを作ろうと思いついたと考えられる。その結果、「フィガロの結婚」の第2幕のフィナーレは、それまでに作曲されたすべての音楽を超えるものになった。同様に第4幕のフィナーレでは音楽の1つの区切りが、ドラマのできごとごとに、歩調を揃えている・・・モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」こそ、形式も、内容も、譜面も、効果も、すべてが音楽を知る者に対して、グルックの「オルペウス」以降の最も偉大なオペラ革命であることを教えたのであった。(4)
1813年2/6初演、ロッシーニ(20)、歌劇「タンクレーディ」
このすてきなオペラは4年間でヨーロッパを1周してしまった。序曲冒頭の数小節は魅力にも高貴さにも欠けていない。だが、天才が発揮されるのはアレグロになってからであり、ベネツィア初演時にはあらゆる聴衆の心を魅了した。序曲のアレグロが大変な好評を得たものだから、ロッシーニは満場の喝采とブラヴォーがとどろく中でようやく隠れ場所を出て、ピアノの席に滑り込んだ。1幕4場のタンクレーディのアリア「燃え上がらせるあなた」はこれ以上様々な土地で歌われたアリアも他にあるまい。このような表現はペルゴレージやサッキーニの時代の音楽にはできなかったし、今のドイツ人にもできはしない。(5)
1926年4/25初演、プッチーニ(没後)、歌劇「トゥーランドット」
ミラノ・スカラ座で、トスカニーニの指揮で初演される。(2)
1920年夏にゴッツィの戯曲によるトゥーランドットのオペラ化は決し、台本作家のアダーミとシモーニと一緒に台本化に取りかかる。第1幕の台本は早くまとまり、1921年5月から作曲に取りかかり、7月末に書き上げたが、第2幕以後は台本も音楽も容易に進まず、1923年6月にはようやく第3幕に着手した。プッチーニは1924年9月の終わりにひどい喉の痛みに悩まされながらスカラ座の一室で完成した部分をピアノで弾き語り、指揮のトスカニーニなど内輪の人たちに披露した。しかし、病は癌と分かり、手術のかいもなく、11/29に病没し、未完の草稿はアルファーノの手で完成された。初演の時トスカニーニはリューの葬送の場面でタクトを置き「ここでマエストロはペンを絶ち、死亡しました」と客席に向かって述べ、演奏を中止し、第2回目の公演から最後まで演奏した。(6)

【参考文献】
1.岡田暁生著・オペラの運命(中央公論新社)
2.新グローヴ・オペラ事典(白水社)
3.ブノワ他著、岡田朋子訳・西洋音楽史年表(白水社)
4.R・ランドン著、石井宏訳・モーツァルト(中央公論新社)
5.スタンダール著、山辺雅彦訳・ロッシーニ伝(みすず書房)
6.作曲家別名曲解説ライブラリー・プッチーニ(音楽之友社)

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