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音楽史年表記事編32.選帝侯と皇帝戴冠式

 1356年、神聖ローマ帝国皇帝カール4世は金印勅書を発布し、それまで神聖ローマ帝国皇帝位はローマ教皇の承認によって行われてきましたが、ローマ教皇の承認を経ず7人の選帝侯の選挙によって決定できるようになります。そして、1508年のマクシミリアン1世の皇帝戴冠はローマ教皇による戴冠式も行われなくなり、これ以降神聖ローマ帝国の皇帝戴冠にはローマ教皇が関わらなくなり、政教分離が成し遂げられます。
 7人の選帝侯には、聖職者による3人の選帝侯と4人の世俗諸侯より構成されます。3人の聖職者はマインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教、また4人の世俗諸侯はボヘミア選帝侯、ライン宮中伯選帝侯、ザクセン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯で、それぞれの選帝侯には日本の官位にあたる称号が与えられました。(1)
 選帝侯会議はフランクフルトで行われ、戴冠式はカール大帝ゆかりのアーヘンで行われることに定められましたが、政教分離によりローマ教皇の関与がなくなると、戴冠式もフランクフルトで行われるようになります。
 なお、7人の選帝侯以外に1708年には宮中職としてハノーファー公が選帝侯となりましたが、皇帝選挙権はありませんでした。また、1803年にナポレオンにより名誉職として、ヘッセン・カッセル、バーデン、ヴュルテンブルク、ザルツブルクの4公に対し選帝侯位が与えられましたが、1806年には神聖ローマ帝国が消滅していますので、神聖ローマ帝国としてはわずか3年の在位に終わっています。

 選帝侯、皇帝戴冠に関しての音楽史においては、ベートーヴェンが1783年に3曲の選帝侯ソナタを作曲し、ケルン大司教・選帝侯マクシミリアン・フリードリヒに献呈しています。また、モーツァルトは1790年10/15にフランクフルトで皇帝レオポルト2世の戴冠式の祝賀のためにクラヴィーア協奏曲第26番ニ長調「戴冠式」K.537およびクラヴィーア協奏曲第19番ヘ長調「第2戴冠式」K.459を演奏しています。

【音楽史年表より】
1783年夏作曲、ベートーヴェン(12)、3つの選帝侯ソナタWoO47
1782年から83年夏以前までにボンで作曲されたと推定される。1783年ボスラー社から出版される。この時代、無名の少年の作品が印刷出版されるということは異例のことであった。出版にあたり作品はボン選帝侯・ケルン大司教のマクシミリアン・フリードリヒに献呈され、そのため選帝侯ソナタと呼ばれる。(2)
選帝侯ソナタ第1番変ホ長調WoO47-1、(2)
選帝侯ソナタ第2番ヘ短調WoO47-2
♭記号4つを持つヘ短調はハイドンやモーツァルトも使用したことはなく、異例中の異例であった。ベートーヴェンがヘ短調を激しい感情の表現に使っていることは熱情ソナタOp.57の先取りであり、またピアノソナタに緩徐な導入部を設けることも初めての試みであり、この緩徐導入部が展開部の最後に再現されることは悲愴ソナタOp.13を先取りしている。(2)
選帝侯ソナタ第3番ニ長調WoO47-3
選帝侯ソナタの中で最も規模が大きく、音楽内容も充実し大胆な意欲を示した作品となっている。(2)
1784年12/11作曲、モーツァルト(28)、クラヴィーア協奏曲第19番ヘ長調「第2戴冠式」K.459
1784年最後のクラヴィーア協奏曲。初演の時期や状況などは明らかではない。この作品には第2戴冠式という名称があるが、これは1790年10/15レオポルト2世の戴冠式を祝して、フランクフルトで行われたレオポルト2世の戴冠式の際に開催された演奏会で第26番ニ長調「戴冠式」K.537とともにモーツァルトが独奏したことに由来している。(3)
1788年2/24作曲、モーツァルト(32)、クラヴィーア協奏曲第26番ニ長調「戴冠式」K.537
トルコとの戦争の影響もあり、ウィーンの人々のモーツァルトに対する熱狂的な歓迎熱はさめ、クラヴィーア協奏曲の需要の場であった予約演奏会は、予約者が集まらないため演奏会を開きたくても開けない状況に陥っていた。モーツァルトは少しでも窮地を救おうとしてこのニ長調協奏曲を作曲するが、初演されたのは1789年4/14ベルリンへ向かう途中に立ち寄ったドレスデン宮廷においてであったらしい。この協奏曲が「戴冠式」と呼ばれるのは1790年10/15レオポルト2世の戴冠式を祝う祝賀会で第19番ヘ長調K.459のいわゆる「第2戴冠式」とともにフランクフルトで演奏されたためである。(3)
【参考文献】
1.菊地良生著・神聖ローマ帝国(講談社)
2.ベートーヴェン事典(東京書籍)
3.モーツァルト事典(東京書籍)

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