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指導者は教育者でなければならない

「おい!何やってんだよ!」

澄み渡る青空に気持ちの良い風がなびく。
意味もなく外出したくなるような天気だ。

しかし、ピッチには怒鳴り声が響き渡る。

「○○ぁっ!!!」

選手が名指しで怒られていた。


有名な高校サッカー部の厳しい指導は、美学のように崇められる。
その指導を受けた生徒も、「先生には感謝しきれません」という。
どれだけ厳しい指導だったのか、自慢大会が蔓延している。

テレビ番組でも鬼のフィジカルトレーニングが手放しで称賛される。「強さの裏にある秘密」といった具合にだ。

そしてそれを見た指導者や、それを受けた生徒が指導者となり、同じように指導していく。


馬鹿なのか?

厳しさを取るか楽しさを取るか勝負の世界。
だから仕方がない?

自分の指導力のなさを言い訳にしないでほしい。

指導者としても二流以下であり、ましてや教育者などと間違えても呼ぶことはできない。

「厳しい指導のおかげでうまくいった選手がいる!」「実際に○○はこういう厳しいなかで…」

いや、その選手はほっといても成長できます。その数少ない選手のために、何十人何百人という可能性のある選手を犠牲にしたことか。
その罪は大きい。

育成年代の指導者は肝に銘じていて欲しい。
あなた達は指導者である前に、教育者でなければならない。

それは選手がプロになるにしても、ならないにしても変わらない。サッカーが上手くなること以上に、人として成長していくことが大切だ。いずれ羽ばたいていく社会で闘う選手に、まず育てなくてはならない。そこでは、サッカーはあくまで手段でしかないのだから。
それを忘れてはいけない。

暴力に頼った指導者に関しては、どんな考えがあろうと犯罪者だと思っている。たとえ結果が伴おうとも、傷害罪に違いない。
まず自分の教育をするところからはじめるべきだ。人を導く資格がないのだから。


指導者は教育者なければならない。

恐怖でチームを支配するのではなく、
人格で選手の心を掴め。

難しいことはわかる。
けど、甘えてはいけない。
選手に厳しく接する前にまずは自分に厳しくあるべきだ。
己を律すること。

常々この考えを持ち続けていく必要がある。
私たち指導者もサッカーのことばかり勉強していてはいけない。
世の中に関心を持ち、自分を通して選手達に学んでもらうくらいの、そういう指導者にならなければならないのだから。


読んでいただきありがとうございました。
自粛疲れが出始めている世の中ですが、こういうときこそ自らを律し、できること、やれることに精一杯費やしましょう。

では、また。

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