樽いっぱいのワインに泥を一滴垂らすとそれは樽いっぱいの泥水になるが、樽いっぱいの泥水にワインを一滴垂らしてもそれは樽いっぱいの泥水のままである、という有名なことわざがある。
出典も定かではないし、本来の意味を知りもしないけれど、でも、この言葉の羅列に矛盾は一つもないなあと思う。

突然だが、私は演劇が好きだ。
少なくとも、好きだと思ってはいる。
演劇に対する樽いっぱいの「好き」に、演劇に関することへのほんのちょっとの「嫌い」が混ざり込んだら、それは何になるのだろう。
飲めなくはない。ワイングラスに注がれた感情に含まれる「嫌い」なんて、気にするほどではない。飲める。飲めるけど、これは絶対に元の味ではないし、絶対に元の気持ちでグラスに口をつけることはできない。
蒸発させようが濾過させようがきっと泥は残って、ひたすらずっと演劇には泥の味が含まれ続けるのだと思う。
私は演劇を濃度100%で楽しめなくなったことが悲しいし、だから100%で美味しく楽しめている人が妬ましい。


私みたいな気分屋で繊細な天才にはチームプレイである演劇とか向いてねえのかもね!! おえ。

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