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ふるさとの田畑を残したい 持続可能な農業経営体を目指して

祖父は戦死した。幼かった二人の娘を育てた大正生まれの祖母が晩年、口癖のように言っていた。「農業をしていれば、ひもじい思いをしなくてすむ」。戦中戦後を生き抜いた祖母の実体験が紡ぎだしていた。当時、10代だった私には実感がわかなかった。


戦前、朝鮮半島から日本に渡り、炭鉱で働いていた在日朝鮮人の老人から話を聞く機会があった。渡日前、「米は一粒残らず日本本土に持って行かれ、裏作の麦が主食。それも足りず、松の皮を削って食べていた」と語った。炭鉱では危険な役回り。落盤で同胞が何人も死んだ。そんな毎日の唯一の楽しみは「飯が山盛り。好きなだけ食べられた」と振り返った。「腹いっぱい食べられる」ことが幸せだったと。


飽食の時代。お金さえ払えば、食べるものは何でも手に入る。ネット注文もできる。世界で年に13億トンもの、まだ食べられる食料が廃棄されている。半面、途上国を中心に8億人以上が栄養不足に苦しむ。食料自給率38%の日本。戦争、気候変動、災害…。輸入が止まったら。


今年も稲がすくすくと育つ。ただ、米価の低迷は耕作者を苦しめる。狭い、不整形、機械が入らない。耕作されなくなった農地が増え始めた。雑草が、そして木が生い茂る。

数年前、地域の担い手農家だった70歳代の男性が急死した。田植え直前だった。高齢で農家を引退し、耕作を依頼していた人たちはパニックになった。その年は別の農家が肩代わりしたが、今も根本的な問題は解決していない。

かつて、多くの小規模農家が支えていた地域の農地。今は数本の大きな柱に頼る。その柱が倒れた時、この田園風景は変わり果ててしまう。ひとたび荒廃した農地は、復活させることが困難を極める。


50代で農業を始めた。祖母の口癖が頭の片隅に、こびり付いていたのかもしれない。短期の農作業スケジュールを考えつつ、将来の農業経営も思い描く。目標をどこに定めようか。自分がしたいことは何か。現役で働けるのは何年だろう。

生まれ育ったこの田園風景を後世に残したい。そのためには持続可能な農業経営体を。そう思った。子か孫か、農業仲間か。いずれにしても経営的にも労働環境的にも「受け継ぎたい」と思える農業の形を目指したい。

初孫が1歳になった。孫たちの世代が、その先の未来の子どもたちが、「ひもじい思い」をするような社会にはなってほしくない。片田舎の小さな取り組みかもしれない。

でも、じいちゃん、やってみるよ。


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