ポジティヴな自殺




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ダメだ、ダメだ。
もう何もかも嫌だ。

時々こんなことを思う。
何もかもを捨てて、1人の部屋でじっとしていたい。ゲームしたり、テレビやYouTubeをみたり、好きな音楽を聞いたり、無責任に、そんなことがしたい。
多分、これを見てるあなたも、きっと。
「死にたい」だなんて、口の中で唱えてる。
本当に死ぬわけではないんだけど。

そんな夜を何度も超えて、ふと思い出した。

私にとって、演劇はポジティヴな自殺だった。

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「よし、死のう!」

と、決めたのは小学5年生の時だった。
季節は覚えてないが、秋頃ではなかったかなとおもう。
何を隠そう私は、感情ムラの激しい父親とおかしくなりかけの母親と仲の悪い兄と暮らしており、学校では今思い出しても自分で引いちゃうくらいひどいいじめを受けていたからである。小学生の私の世界は家と学校で構築されており、そのどちらにも救いはなかった。
四面楚歌である。

当時、自殺というのは今ほどセンセーショナルではなかったと思う。
私の中でも、自殺はとても素敵な選択だと思えた。言わば、ポジティヴな自殺である。今より地獄などあるまい。

私は家に帰ると、早速遺書を書いた。紙はお気に入りの一番素敵な便箋にした。
詳細は記憶にないが、私を酷くいじめた人間の名前は全員書いて、あなたたちのせいで死にますと締めくくったのだけは覚えている。その上、さらに私は、個々への手紙も書き、あなたにされたこういうことが嫌だった、などと詳細に書き綴り、一番嫌いな奴には「どうか私のことなど忘れてください」と書いた。小学5年生ですでに皮肉な女だったのである。遺書とたくさんの手紙を学習机の上に置いたコロコロクリリンの引き出しに仕舞い、準備は整った。

さて、結論から申し上げるとこの作戦は大失敗だった。だって私は今日もこうして生きている。生きている。

2
私の名前はあがぺる(無論芸名だ)。
平成6年3月生まれ。
中1で演劇を始め、なんの因果か今日までお芝居に携わり続けている。

そこそこ悲惨な幼少期を過ごし、そこそこ惨めな青春時代を過ごした。
演劇に出会うまでの私は、何にも無し子だった。
義務教育期間、重要視されるトピックスをいくつかあげる。

・運動ができる
・勉強ができる
・顔がいい
・絵が上手い
・歌が上手い
・字がきれい

まぁ、ざっとこんなもんだろう。
大体の子はこのいずれかにおいて、ある程度のポテンシャルを持っている。が、私はオールゼロだった。勉学でも体育でも音楽でも美術でもわたしは誰からも必要とされず、褒められることもなかった。
なぜ私がいじめを受けることになったかというと、簡単に言えば、私は軽度の発達障害でブスだったからである。
もっというと、理由などなかったように思う。
いじめられてた時に言われて、母に言われた言葉で印象深いものがある。

「成績悪いのに、頭いい子みたいな発言するから目をつけられる。だから、勉強しなさい」

ふむ、なるほど。今ならよくわかる。だが、当時の私からすれば、「それができりゃやっている」である。それも、なるほどなのである。

いいところ何も無し子の私は、そんなこんなで義務教育とともにいじめを受け続けた。義務教育とはつまり、小学1年生から中学3年生の9年間を指す。つまり9年間、酷さの大なり小なりあれど、私の隣にはいじめがあった。もはやここまでくるとギャグである。一周回って超おもしろい。

そのいじめが一番苛烈化したのが、小学5年生のときだ。
そして、私は教室の窓から飛び降り自殺を試みる。
結果は失敗。そして、保健室登校を2日経て、教室に戻った。

「死ぬならちゃんと死ねよ」

投げかけられた言葉を私は一生忘れることはない。

3
演劇をしたいと思ったきっかけは、本当に些細なことだった。
確かNHKか何かの特集だったと思う。
ミュージカル「アニー」のヒロインオーディションを放送していた。
明日は幸せと歌いながら、辛いオーディションの中で涙を流す。

衝撃的だった。

苦しみながら舞台に立とうとする姿は、私に希望を与えた。

「演劇でなら私はこんな自分を捨て去れるかもしれない」

だって、こんなにしんどそうに涙を流しても、舞台上の彼女たちは輝く笑顔で希望を歌っていたんだもの。

ブスで勉強もできなくてとりえなんて何一つ無いことを知っていてしまった私は、別人になり切れればその間だけは自分のことを肯定できるような気がした。

劇団に入ったのは中学一年生の時だった。
初めての舞台で、私はウサギの役を演じた。
自分のことを優秀でかっこいいと思ってる性格の悪い少年ウサギ。
顔を白塗りにして、舞台に立った。
私が死に、私じゃない者として、舞台に立った。
飛び降りた時と似ている。
これは自殺だ。自分を殺す。
でもポジティヴだ。あの時と同じポジティヴな自殺だ。

だって、舞台に立った私は「私」のことを好きになれた気がしたから。


中学になってもいじめが終わることはなかった。
同じ小学校の人たちだけではなく、違う小学校の子たちにまでいじめられっ子だと認識されていたからだ。
(私をいじめていた子たちはスクールカーストが高く、塾に通っていたためそこで広まったものだと思われる)
私の名前の後ろに菌をつけられて、触ったものは捨てられた。
私自身、【男】という生き物に嫌悪感を抱き、触られると発狂して吐いてしまっていた。
その反応は向こうからすれば面白く、何度も何度も触られ、そのたびに「菌が付いた」と押し付け合いが始まった。

私のいじめられっぷりは圧倒的なもので、いじめなのかいじられてるのかのラインはどんどん曖昧になり、スクールカースト上位下位関係なく、気軽にいじめられるようになった。
もっと言えば「私を堂々といじめること」がスクールカーストで上位なことの証明に使われていた気さえする。

この辺からの詳細な記憶は、正直あまりない。
何故なら、いじめられる日常に対しての免疫力がつき過ぎ、ゴミ箱で私物が見つかっても、物を隠されても、殴られても、閉じ込められても、これがどの程度ひどいことなのかも判断できず、何に傷ついていたのか当時もわからなかったからだ。
だから、覚えてられない。

今でもかなり酷かった犯罪行為については覚えているが、悪口嫌がらせなどは日常の一部なので正直わからない。
私にとって「いじめ」とは義務教育期間中常に隣にあったもので、特別なことでもなんでもないのだ。


いじめられすぎておかしくなっていた私は、「強くなった」と自分のことを思っていた。
鋼の精神と自分を自称し、胸を張れるようになった。
何をされても泣かなくなってきて、何を言われてもコミカルに言い返せるようになり、いじめを笑いに変えることができた。
その内に「こいつはいじめられっ子だから何を言っても何も思わない」と思われていたし、実際自分のことをそう思っていた。

その頃から家庭の不仲は顕著になり、救いのなかった私はますます演劇にのめり込んだ。
演劇をしている間は、役でいれる時間だけは、私は私ではなくなり、何者でもなれた。
まぁ実際、強くなったわけではなく、磨耗していただけにすぎなかった。

私のプライドとか自己肯定感とかすり減らしながら、毎日踏ん張って生きていただけにすぎなかったんだなあ。
「ブス」も「きもい」も「死ね」もひょうきんに笑いに変えなくてよかったんだよ。
傷ついてるのも分からなかった私に伝えてあげたい。

6
私は女子校にすすみ、演劇部にも入部した。
学校のコースの都合で3年間同じクラスでのあだ名は「ブスメガネ」になった。
小中が一緒の女の子がいたからだ。
ただこんなこと言うのはおかしいが、3年間いじめられてはいなかった。
ただブスでメガネでブスメガネ。
単純な事実だ。

義務教育期間をたっぷりいじめられたわたしの「ブス」を笑いに変える技術はかなりのもので、バンバン笑いを取っていたし、クラスの立ち位置も、心地の良い圏外を選んでいた。
演劇にのめり込んでいるオタク、それが私だった。
どんなに「ブス」と言われても、ひとつ小中学と違うことがひとつだけあった。

男がいたのである。

男が、ドチャクソいたのである。

この日本国は、本当ロリコンの国だなと思うのだが、女子高生というだけでブスな私も売り手市場では買い手がバンバンつくのである。
世界がピカピカに輝いた。

あんなに惨めでいじめられていたのに、今や毎日たくさんの人からご連絡が来るし、「かわいいね」「会いたい」「素敵だね」とチヤホヤされるのだ。
どんどんぶりっ子したし、甘えたし、向こうが喜びそうな言葉遣いで、喜びそうなことを猫なで声で言った。そうするとさらに色んな人が優しくなった。
クラスで「ブスメガネ」と言われようが、なんともない。だってこんなに私を好きな人がいる。
最強無敵だ。

しかしながら、それによって私は「女は男に愛されないと生きていけない」という思考にガチガチに囚われた。
可愛くないからモテるのは若い内だけ。せめて体型だけは細く保つ。
だからミニスカートに、ローヒール、ポニーテールに揺れるイヤリング。
クローゼットに溢れかえるピンクと白のワンピース。
私は消費されることにした。そのことにその時は気づいていなかった。

7
少し話は逸れるが、私は昔どうしようもないブスだった話を詳しくする。
今だって可愛くはないけど、当時のことを思えば随分もマシだ。
前述の通り、いじめられて過ごしたので、ブスである自覚もある程度持っていた。
なので様々な制約を自分に課した。

「ブスがロリータ(*白やピンクのフリフリのファッション)を着てもいいのは20歳まで」

「ブスだから男に媚びる」

など。当たり前にそう思っていたし、そう判断できている自分は賢いと思っていた。
そうして20歳になり、私は大好きなフリフリを着るのをやめた。

ずっとなんとなく息がしにくいのは感じていた。
そうして20歳で一人暮らしを始めた私は、演劇団体「なりそこないプリンセス」を立ち上げる。
それは私が22歳で死ぬために作られた団体だった。

何を隠そう私は昔22歳で死ぬと思っていたので18歳から「終活」を始めていたのである。
「死ぬ前にやり残したことリスト」をつくり、それを淡々とこなす日々を送っていた。
なりそこないプリンセスとは私は自分の脚本演出の舞台を死ぬ前にやってみたかったためだけに存在していた。

誤解のないように言いたいのだが、これは自殺を意味しているのではなく、なんとなく「22歳で死ぬかもしれんな」という曖昧な気持ちだったが、思い込みの激しい私はそうに違いないと思っていた。

私は臆面なく「終活をしている」話を平気で周りにしたが、周りは「就活をしている」とありがたく勘違いをしてくれたのでリストは順調にこなせていた。
しかし、21歳の時友人に気づかれ、

「君は淡々と死ぬ準備をしてるってこと?」

といわれ、自分がいかにおかしいことをしているか気づいた。
私はびっくりしながら

「そうだねえ」

と何事も無いかのように返すと
友人は泣き出してしまった。

その後すぐ私は終活をやめた。
やめるとわたしには、演劇以外が手元からないことに気づいた。
周りにいる男達のことを私は愛せていないし、愛していない人が愛してくれているわけもなかった。

8
終活をやめたあたりから、
「なぜ私は男受けを考えて生きなくちゃいけないのか」
「割り勘の会計で何故男を立てなきゃいけないのか」
「ミニスカートを呪いのように履く意味はなんなのか」
とかを考えるようになった。
その後から今に至るまで、私には彼氏がいない。

終活をやめて、周りに演劇以外何もなくなった私は「彼氏ほしいけど、いません!ブスつらいですぅ」みたいな女のフリをし、自虐にすることにした。
何故そんなフリをしたかというと私は、自分はいずれ今手元にある演劇を辞めて、結婚するもんだと思い込んでいたからだ。
今はこんな感じだけど、いつかは、誰かを愛し、愛され、子どもを産むもんだとてっきり。
演劇をやっていた日々のことを子どもに
「お母さんね、昔舞台してたんだよ」なんていう日が来ると思っていた。
だって私は、可愛くなくてどうしようもないから。演劇なんて続けられない。お金もないし、特別じゃないから。
だから、彼氏いらないとか言ってはいけないと思ってた。
実際「彼氏いない」言うよりも「彼氏ほしいです!モテない!えーん!」とか言う方がウケるし。場の空気も明るくなるし。なんだかんだ言いながらいずれ結婚するわけだし。と。
今思っても間違った選択だと思ってる。たくさん消費して消耗して疲れてしまった。

9
24歳、死ぬ予定だった年齢を2年過ぎ、演劇を辞める予定だった年齢を迎えたとき、私は媚びることをやめた。
ミニスカートをやめて、真っ黒な服を見に纏うようになった。
男ウケが良かったローズピンクの口紅も捨てたし、ナチュラルなつけまつげもやめた。
「彼氏いない」も「ブスつらい」も笑いに変えるのをやめた。

最初はとてもしんどかった。ニコニコ消費された方が楽だと思った。でも、とにかく嫌だった。
「ブスだね」を笑いに変えるのももう疲れた。
恋愛というものから一切の線引きをした。
「モテないよ」とか「男のことわかってないな」と言われた。
真っ黒な服も強く引いたアイラインも真っ赤な口紅もたっかいヒールも私のためだ。
あなたに愛されたいなんてこれっぽっちも思っていない。
なのにとても悲しかった。

とにかくとにかく演劇をした。
演劇はずっと頑張ってたけど、さらにストイックに向き合った。
死にたいとか消えたいとか嫌いとか惨めとか怒りとかそんなものを全て演劇へのエネルギーへと変えた。
ありがたいことに応援してくれる方や支えてくれる方に恵まれた。

あー、良かった。そう思った時に思い出した。
死にたい夜を乗り越えれたのは、あの日、顔を真っ白に塗って、ポジティヴな自殺として舞台に立ったからだ。

10
さて、話が長くなってしまった。
なぜ私がこんなものを書いたかというと、私と同じように苦しむ人の力になりたくてだ。
いじめられてる人、今の自分と思い描いた自分のギャップで苦しんでいる人、誰にも理解されないと思い込んでる人。
あなたの力になりたくて、お節介だが、こんなものを書き記した。

演劇を、しませんか?

私と一緒に、ううん、そうでなくてもいい、
ポジティヴな自殺を一緒しましょう。

あなたをあなたが肯定するために。

written by なりそこないプリンセス代表 あがぺる

Twitter・あがぺる(agpr0322 )