希望の国は存在できるか


村上龍さん著の「希望の国のエクソダス」を読み終えました。
読んでいて考えさせられたので感想を文という形でアウトプットしたいと思います。
後から自分で読み返したくなるようなものが書ければなと思います。


作品の構造はマクロ的にみると大半が当時の日本や経済の状況など背景描写や前提の共有で、終盤のぽんちゃんが国会で演説するところから物語の本質が書かれていると感じました。
話の流れの中で主人公のフリーライターの視点での想いや周囲の人間の言動などミクロ的には情の入った描写があったのですが、図にしてまとめやすそうな話の進み方だと感じました。

読み終えてまず、現代を予言してんのか!?と思いました。
この作品は2000年に出版されたものでもう20年も前のものです。
なんならその年にまだ僕は生まれてもいないんです。


それなのに、ASUNAROがつくったEXという通貨や北海道のNOHOROは仮想通貨や現代社会の問題である環境や北海道の土地問題など今に通ずるものが散見されていました。
2000年にそんなこと考えていたのかと短絡的な感想を抱きました。

でも、これはもしかしたら当時から問題視されていたことかもしれません。まぁそれはそれで問題ですよね、、、


集団不登校が起こった理由は簡単にいうと、義務教育を疑ったということが大きかったんだと思いました。
何のために小中と義務によって勉強しているのか。
僕も中学生の時に考えたことがあります。
作中では国会議員が法律で決められているからだといいました。
これはもう考えることすら放棄した発言ですよね。
僕の場合は一人での勉強では得られないものが学校にあるからだということでした。
道徳とか他者とのかかわりといったものです。後からつけた理由で自分を納得させるしかないです。

実際には法律を変えるのが大変だからというのが大きいのでしょう。
だから意義をなくしたものでもやめられないし変えられない。
戦後当時に作られた法律を現在でもつかうというのはかたっくるしいのでもっと柔軟な社会になってもいいんじゃないのかなと思います。
新しい考えや革新的な方法が施行されたとしてもそれもいつかは古いものになるのですからね。


さて、そんな不登校集団が組織をつくったり活動をしだしたのは、社会や制度を変えたいと思ったんじゃなく、変えるべき、変えたほうが都合が良いという必然性からくるものだった。

ひとが二足で歩き出したことと同じように新しい物事に何の疑問も抱かずにそれをやってのけたのでしょう。それに大人である今までの社会で生きてきた主人公には理解できなかった、恐怖に感じた。
これはわかりやすい構造だったなと思いました。

中学生は善も悪も知らない、右も左もわからないだからこそ社会の”普通”から逸脱した行動をとった。
既存の日本の人々にとっては彼らは普通ではなく自分たちの生活からかけ離れたものに感じていました。作中ではマスコミも彼らを取り上げるのはやめ、国民にとって彼らを非日常にして関係ないものだとしました。
そこに存在しているものなのに蓋をしてみないようにしたのです。
これはあとがきで村上龍さんもおっしゃっていたのですが要は危機感がない。

作中ではもう一つの大きな危機としてアジア通貨基金による円の危機がえがかれていました。
為替や値動きは小難しくてよくわかりません。
(これは僕だけではないと思います)


作中では経済ジャーナリストが「景気を政府が隠したりなんだりすることで日本が今どんな状況か誰も分からなくなった。」というようなニュアンスで言ったことが印象的です。

わからないから蓋をする。知らないから見ないふりをする。
ひとり1人の意識が世界と共有できていないんですね。
だから、リストラなどの自分の現実が変わる瞬間まで危機感がなかった。
そんな社会になってしまったのだという印象的なものでした。

それは現代の社会でも同じなんじゃないかと思うことがあります。


国会がまともな話し合いをしていない。
それを「またやってるよ」と鼻で笑うように傍観する。
みんなにとって間接民主主義は他人事になってしまってるんですよ。
間接的だから。

COVID-19の時もそうでした。
日本に感染が流行っていないときは対岸の火事で危機感が一つもなかった。
政府に文句を言うだけで個人でできることは何もしていなかった。
なぜなら自分が感染していないから。


人は目に見えるものしか判断できないのでしょうか。

他人事を目で見るためにはメディアが必要です。
しかし、作中ではメディア批判が多く見受けられました。
作中でマスコミは普通じゃない中学生たちを数字になると面白がって、都合が悪くなると隠しだしました。
僕はそこで信用するなというようなメッセージを受け取りました。

目に見えるものがすべてじゃないことなんてインターネットがでてきて当たり前の常識になったものだと思っていました。
見えない危機感を自分でとらえる時代なんじゃないんでしょうか。

こんなことを20年前の本を読んで読み取れるんです。
村上龍さんは作品を近未来を舞台にしたファンタジーと評しておられました。
確かに中学生が日本から脱出なんてファンタジーです。
でも中学生が脱出を考えるような社会はフィクションではありません。
現実がファンタジーに近づいてきたのでしょうか。
空想にゆだねないといけないほどこの国の将来は不安なものなのでしょうか。
僕にはそれはわかりません。
変えていきたいと声高に叫んでも一人では何もできないでしょう。
多くの人に危機感を持ってもらうしかないと思います。


矜持がない大人には見習うものがない。
だからオリジナルでも自分たちの道をつくった。
そうとも感じられました。


でも、ASUNAROがつくった希望の国は進化の分岐の終わりなんじゃないか。
理想郷であるから革新がない。
理想郷は目指すものであって達成されたら次の目的、ゴールはあるのか。
とも考えました。