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台本女とアメリ

こんにちは!アニエスです。

横澤夏子さんの「台本女」のコラムを読みました。とても面白かった〜!!

だって、「台本女」いましたから。


寄り掛かりにイラついてた

会社の先輩だったんですけどね。最初はとても優しい雰囲気のおっとりした人だなぁのんびりやの自分に似ているな、とシンパシーを感じていたりして話好きな人だったし、わたしは自分のことを話すより人の話を聞くのが得意だったので「うんうん」と喜んで聞いていました。

しばらくして彼女の会話に属性情報が多すぎることに気づきました。自分の活動の功績にはじまり有名大学を卒業して大企業に勤めるという知人たちの話ばかり。

わたしはこんな性格なので人との付き合いで大事なのは、(スピ的にいうならば)自分と波動が合うかどうか。結婚してるとか子供がいるとか東京の一等地に住んでいるとかそういう属性は必要ないのです。ましてわたしの知らない人の話なんて本当に本当にどうでもよかった。

寄ってきて話すことといえば「わたしってこんなスゴイ人と知り合いなんだよ」という自慢への「すごいですね」の要求でしかないとわかり、その打算的なコミュニケーションに怒りを感じながらもどこか「この人って満たされてないんだろうな」という目で見るようになりました。


アメリを見て気づいたよ

幸いにも彼女との接点は次第に薄れていきましたが、どうしても他者に寄りかかる前提のコミュニケーションが解せません。「すごい!」「さすが!」「えらい!」を言わないと他者との関係は構築できないのでしょうか。幼少期に褒められた経験がないとかいう説も聞くけど過酷な家庭環境で育った素晴らしい人格者だっているし(多分)、親のせいばかりにするのもなんか違う気がする。

アマプラで映画「アメリ」を久しぶりに見直してみたのだけど。あのとき「アメリ」にまんまとひっかかった人とそうじゃない人って根本的に何か違うような気がするんじゃないかと思いました。

女子でひっかかった人はアメリに自分を重ねていたはずだけど、つまり「内気で変わった女の子」に市民権を与えてくれたジャンヌダルク的存在に賛同したんと思うんだよね。「内気な自分」にも価値があるんだとアメリがフランスが教えてくれた!それだけでうれしかったし、おかっぱにもしたしフランスにも行ったよ。

「台本女」は他者によってしか自分は満たされないと思っていて、アメリは自分の中の世界を大切にすると満たされることを知っている。「台本女」とアメリを比べるのはおかしな話だけど、その違いなのかなって思った。

アメリに共感したのは、自分の世界観が他とうまく交わるのか常に不安に思っているってところ。それでいいんだ、って安心したよね。

自分を満たせるのは自分しかいない。

自分で自分のご機嫌くらい取ろうぜ。


とりあえず、「台本先輩」にはアメリみてほしいわ。

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