苛立った状態ではクリエイティブな思考は生まれない。怒りや苛立ちは人のせいにしている証拠である。
先日、ある選手が試合中に自分の結果に苛立っているのか、他の誰かに苛立っているのかはわからないが、怒りを態度に出していた。別にそれに怒るつもりもない。もしかしたら他の大人なら、そんな人は応援してもらえない、とか、審判を敵に回すなとか、人として成長しろなどという声をかけるかもしれない。私はそんな声をかけるつもりもない。ただ、チームが試合に勝つという目的を考えた時、苛立ちというのは損失しか生まないと思うからこそ辞めるべきだと思う。
人というのは想像以上に不器用である。何かを考えれば他の何かを忘れてしまう。チームの1人が苛立っていれば、他の選手はみんなその1人の行動に思考が向いてしまう。なんでイラついてるのだろう。どうすれば怒りはおさまるのだろう。そんなことを考えているうちに、相手を倒すことへの集中がどんどん削られていく。そしてその本人も苛立ちによって冷静さを失う。もしその選手がキャッチャーであれば、その思考で相手のバッターの立ち位置やスイング軌道を見て一球一球最適な配球を試合が終わるまで考え抜けるだろうか?おそらく考えられないだろう。つまり、苛立ちは損失しか生まないのだ。その状況では何もクリエイティブな思考が生まれないからだ。相手を倒す光の道筋が見えてこない。試合の目的は相手を倒すことである。であれば、チーム全員が試合が始まって終わるまで相手を倒すこと以外の思考をとにかくゼロにしないといけらない。それ以外のことに気を取られているようでは勝てる試合も落とす。もう一度いうが、別に態度に出すなと強制して怒るつもりは私にはない。ただ、勝ちたいというのなら答えは明確ではないだろうか。勝ちたいなら苛立ちを出さない努力を自らするべきではないだろうか。
先ほどの話の続きにもなるが、じゃあどうすれば苛立ちを無くせるようになるのかという問題だ。その答えは、起こること全てが自分の責任であると受け止めることである。言い換えると、自分の今の感情は全て自分の選択した行動によって形成されていると自覚することだ。そして、どういう仕組みを作ればもう2度と起きないかを考えることが重要である。
いきなり車が飛び出してきて轢かれたとしても、上から鳥の糞が頭に落ちてきたとしても、彼女に理不尽なことで怒られたとしても、後輩が思うように動いてくれなかったとしても、全て自分の責任であり、自分が選択した行動によって起こりうっているのである。車がどんな飛び出し方をしてきたとしても自分がしっかりと確認していれば轢かれることはないし、屋根のあるところを歩くようにすれば鳥の糞が落ちる事もないし、彼女に理不尽なこと言われたとすれば別れればいいし、後輩が思うように動いてくれなかったとすれば指示の出し方を学べばいい。一件人のせいにした方が楽になるように思えるが、自分以外の誰かの行動で自分の感情が左右されるというのはとてつもなくストレスになるのだ。そのストレスがクリエイティブな思考をうばう。なのであれば、起きた出来事を全て自分のせいだと受け止め2度と同じことが起こらないように仕組みを作れば、苛立ちを抑えることができ、より人生が豊かになる。
先日、ある教員が休日まで部活の指導に出ていることに不満を言ったり、生徒にそういう先生の行動に感謝を伝えなさいなんて偉そうなことを言っていたが、そもそもそれもお前が選んだ行動だろ!だなんて思ったりする。私は自分で選んで教員になり、自分で選んで休日部活に行っている。別に法律で仕事を辞めてはいけないと決められているわけでもないし、部活を休めないわけでもない。休みたかったらいつでも休めるし、やめたかったらいつでも辞めれる。なのに、その行動にいちいち感謝を伝えろなんてアホなのかって思ったりする。私たち日本国民は資本主義なのである。勉強しようがしまいが自分の勝手。やりたくないやつはやらなくて良いし、やりたい奴がやれば良い。ただ、やった方が確実に豊かになる。だから人の人生や行動に口出しする必要もない。自分がやるべきことを考える。それが苛立ちというストレスを完全になくす必殺法であると思う。つまり、苛立ちや怒りは人のせいにばかりするつまらない人間に降ってくる感情なのだ。
キャッチャーはピッチャーがストライクが入らなかったら自分の責任。ピッチャーは内野がエラーしたら、三振取れなかった自分の責任。そんくらい自責の思考でチーム全員が3年間努力した時、もしかすると甲子園が見えてくるのかもしれない。