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『金井美恵子自選短篇集 エオンタ/自然の子供』雑感

『金井美恵子自選短篇集 エオンタ/自然の子供』はなぜ、「自然の子供」の次が「河口」なのだろうと思う。なぜここなのだろう、次が。或いは「水鏡」と「洪水の前後」の間にあるはずの二篇がないことへの違和感。そこにあるべきはずの作品、自分にとっては確かに生きたはずの時間であり空間であり感覚、この上なく肉体的な深い接触の果てに、輪郭さえ、自他の区別さえ見失うほどの、境目さえ柔らかに溶け出して混ざり合うほどの、誰でもない、ただ読むことの只中にある肉体として、無防備に開かれた触知する肉体として、流れ出で/流れ込む水性の言葉、あらゆる粘度と速度を以ってあらわされる水の言葉に全身を出来る限り触れさせる/密着させるような深い交わりの果てに、自分にとってはもはや確かに生きたはずの記憶そのものであるとしか言いようのない残り方、埋め込まれ方をしているそれらがないということへの戸惑い。それこそ自分は金井美恵子の小説を、ながいながいひとつづきの小説として読んでいたのかもしれないのだけれど。〈自選〉という言葉によってこぼれ落ちてしまうものと、そうでないものの差はどこにあるのか。〈自選〉という言葉によって、1968年に書かれた作品と、1980年に書かれた作品が結びついてしまうことの不可思議さを、ずっと考えてしまう。
〈水〉と〈肉体〉の接触、あらゆる粘度の〈水〉を介した接触、あらゆる粘度の〈水〉性のものとの接触。密着させる、限りなく、出来得る限り。互いに影響し合うような、浸食し合うような、境界さえ見失って、境界を混じり合わせるような。そのような深々と濡れている過剰な接触の果てに。〈わたし〉は〈わたし〉を共有する。複数となる。いくつもの記憶とイメージがあふれ出し、けれど語りの主体そのものも混ざり合っている。〈わたしたち〉は〈わたし〉を共有する。〈共有と分裂の原理〉、〈わきあがる水とくずれる水〉が同時に起きているということ。
自然の子どもたちの無邪気な傲岸さ。恐れ知らずで貪欲で。どこまでも無邪気で傲岸だ。夢見る子どもたちの。〈海を漂い渡りながら〉、魚であり溺死体、〈あるいはすでに海そのもの〉である子どもたちの。書くことの中へ、自らの書きつつあるものの中へ浸り込み、〈唯、書きつつある者〉になる少年の。輝かしいまでに魅惑されていること。追放されてしまう前の至福であり傲岸さであり輝かしさなのだろうかこれは。追放されてしまう前の、原始の未分化の水としての「自然の子供」?

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