あ げ こ

金井美恵子を読むために生きているとも言える。

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金井美恵子を読むために生きているとも言える。

最近の記事

『金井美恵子自選短篇集 砂の粒/孤独な場所で』感想

『金井美恵子自選短篇集 砂の粒/孤独な場所で』はそれこそ、自分にとっての、本を読むことの理由そのものだ。この一冊がそのまま、自分が本を読むことの理由そのものとなる。この本を語ることがすなわち、読むことを語ることであり、読む快楽を語ることだ。 生きているとしか言いようのない体験なのだ、それは。生きているというよりほかのない、痛切な体験、痛切さを伴う体験。欠如を、喪失の記憶を。失いつづける痛みを。不在であること、不在をめぐりつづける繰り返しを生きることの孤独を。永遠に辿りつくこと

    • 『金井美恵子自選短篇集 エオンタ/自然の子供』雑感

      『金井美恵子自選短篇集 エオンタ/自然の子供』はなぜ、「自然の子供」の次が「河口」なのだろうと思う。なぜここなのだろう、次が。或いは「水鏡」と「洪水の前後」の間にあるはずの二篇がないことへの違和感。そこにあるべきはずの作品、自分にとっては確かに生きたはずの時間であり空間であり感覚、この上なく肉体的な深い接触の果てに、輪郭さえ、自他の区別さえ見失うほどの、境目さえ柔らかに溶け出して混ざり合うほどの、誰でもない、ただ読むことの只中にある肉体として、無防備に開かれた触知する肉体とし

      • 金井美恵子/金井久美子『楽しみと日々』感想

        〈すくなくともルノワールの映画に出あうことはなかったら、『柔らかい土をふんで、』という小説を書くことはなかったと確信をもって言える。一九八七年、日本未公開だった『のらくら兵』と『牝犬』に出あわなかったら、小説を書きつづけることが出来たとは、とても思えないのだ。〉 作家に小説を書かせたもの、小説を書くことの方へと、作家の指を向かわせるもの、向かわせ続けるもの。ほかでもない金井美恵子に!小説を書かせるもの、書き続けることを運命づけてしまうもの。それらに触れるということ。それらを語

        • 『金井美恵子全短篇Ⅲ』メモ

          『金井美恵子全短篇Ⅲ』は『くずれる水』からはじまる。「河口」から、まさしく〈水で出来た膨張する迷路の無限の分岐点のはじまり〉から。枝分かれして行く。しばしば浸水し、混ざり合い、曖昧に不確かに溶け合い、合流と分岐を繰り返しながら。無数に広がって行く、細かに枝分かれして行く。戻るのではない、円環ではない、繰り返しでありながら、反復でありながら、けれど同一ではない。〈共有と分裂の原理〉…奪い合うのではなく、共有し合うのだ。Ⅲに至り、言葉が、小説がやがて『柔らかい土をふんで、』へと雪

        『金井美恵子自選短篇集 砂の粒/孤独な場所で』感想

          金井美恵子『迷い猫あずかってます』中公文庫版の感想

          新潮文庫版、エッセイ・コレクションと、何度読んだかわからない。猫、トラーちゃんのその見飽きなさ、都度更新されて行く実感と感動、まさしく〈日々、新しく知りあった生きものとして目の前に存在〉していたのだ、トラーちゃんは。〈外で顔をあわせて、トラー、トラ、トラ、と呼ぶと、駆け寄ってきて、ン、グググググ、とノドを鳴らす。最初の、ン、という声は、ニャ、という音を出さずに口を開いて鳴くものだから、ニャンという声の、ンだけが音になるのである。〉〈…とはいえ、猫が眠っているとついこちらのほう

          金井美恵子『迷い猫あずかってます』中公文庫版の感想

          金井美恵子『道化師の恋』感想

          何回読んでも楽しい。その批評性とか時代感覚や日常感覚の敏感さとかさまざまな言説や書かれた言葉や細かで具体的な物や人や情景の集積であると言うか魅惑的なスクラップブック感とか当て擦りの的確さとか諸々思い知らされて笑ってしまう痛快さとか、読む楽しさでいっぱい。登場人物なんて誰ひとり好きではないのに、好きでもないその人たちの生きている"今"というものを濃密に生きさせられると言うのに、何度読んでも面白いのがすごい。ちらっと出る『タマや』勢は別です。いつ読んでも楽しいし、読むたび楽しいの

          金井美恵子『道化師の恋』感想

          『金井美恵子全短篇Ⅱ』感想

          Ⅱには必然的に『単語集』が組み込まれている。波及する言葉、引き起こされた小説。〈夢の中で、自分の今までの人生のすべてが、行為や自分の考えるあらゆる言葉が、すべてにどこかに書かれてあることをなぞっている、ということを発見する。このことは百科事典ほどもある大部の書物に書いてあるのだった。〉〈記憶しているあらゆる出来事が、その本のなかに、末尾の項目別索引付きできちんとまとめられ、出典を示す記号が付されていた。非常な好奇心と恐怖をもっとその本を読みはじめるが、実はその瞬間、今、その本

          『金井美恵子全短篇Ⅱ』感想

          金井美恵子『岸辺のない海』メモ。

          〈ところで、わたしにとっての夢の本といえば、この不可能な不在の彼との手紙のやりとりであって、不在の彼が、実はわたし自身であるという、わたしにとっての逆説なんかでない真実にしか、わたしの夢と書くことへの願望はないのである。〉〈夢の本の意味するのは、真の意味での書く理由の欠如であり、わたしの書けなさのすべてなのだから。夢の本は、海だけでおおわれた惑星のように、岸辺のない海のように、ただ巨大な球形の空虚な海として、不可能な海として、不在であり、そして存在する。〉…夢から海へ。思い出

          金井美恵子『岸辺のない海』メモ。

          金井美恵子『たのしい暮しの断片 シロかクロか、どちらにしてもトラ柄ではない』感想

          出来ることならば、自分は金井姉妹の本の中で、金井美恵子の言葉の中で、生きて行きたいと思う。自分は出来得る限りその本の中に、金井美恵子の文章の中にいたいのだ。例えば〈毛糸屋兼手芸・洋裁用品の〉店内を、そこにある品々を思い出す言葉の中で、〈フランス刺繍やスウェーデン刺繍や日本刺繍の艶々と輝くサテンのような糸〉や〈バイヤス・テープや手芸用のフェルト、ミシン糸、糸巻きのボール紙にきちんと巻かれたボタン・ホール用の穴糸、絹や木綿のかがり用糸〉といった品々の中で。自らにとっての〈一番心地

          金井美恵子『たのしい暮しの断片 シロかクロか、どちらにしてもトラ柄ではない』感想

          一つの境目としての金井美恵子「桃の園」メモ。

          「桃の園」という、濃密なまでに金井美恵子である一篇について。メモ。『金井美恵子全短篇Ⅱ』はこの一篇に尽きるように思う。ここに自分の思う金井美恵子の短篇が凝縮されている。この一篇が一つの境目なのではないか。これ以前の金井美恵子も、これ以降の金井美恵子も、ここに入っている気がする。エピグラフの深沢七郎、夢の燈明のような桃色の果実、バスの緑色のビロードの座席のざらついた固い感触、ビロードと触れあう脚に溜まる汗の気持悪さ、淡いクリームと濃い薔薇色の果実の色彩、夏の強い日差し、幸福感、

          一つの境目としての金井美恵子「桃の園」メモ。

          『鼎談集 金井姉妹のマッド・ティーパーティーへようこそ』金井姉妹のおしゃべりを読み返す。

          当時読んでいたのは大江健三郎ひとりという説もある鼎談集、今回も楽しく読み終える。姉妹はこれらの鼎談を「古びてる」と言うけれども、「古びる」ということは即ち時代性があって紋切り型でなくて面白い、ということなのだと。〈…それで好きな小説は、完結していない小説ってことなの。それに一つの作品に完成とか完結ってものは本質的にないんじゃないかと思う。〉〈小説のページを繰り、言葉を追いながら、わたしも一緒に歩くのよ。〉読むことの楽しさをめぐる金井姉妹の言葉。読むことに対してとてもとても勉強

          『鼎談集 金井姉妹のマッド・ティーパーティーへようこそ』金井姉妹のおしゃべりを読み返す。

          『〈女流〉放談 昭和を生きた女性作家たち』感想

          若い時分の自分が佐多稲子や河野多惠子や大庭みな子や津島佑子を読んで来たことは、まったく正しかったと思う。彼女たちによって開かれて来たのだと、改めて思う。勿論共感できない発言は多いのだ。佐多稲子にせよ河野多惠子にせよ津島佑子にせよ大庭みな子などは特に。むしろ自分は彼女たちのその、性にまつわる発言の多くを幻想として、如何にそれが幻想に過ぎないか、可視化して暴き出して愚かしさを思い知らせて打ち砕いて解体してしまうような、壮大に書き直してしまうような小説にこそ慰撫されて来たのだと思う

          『〈女流〉放談 昭和を生きた女性作家たち』感想

          金井美恵子『昔のミセス』雑感メモ。少女の自尊心と紋切型の感慨と森娘の膀胱。

          『小公女』の中の、貧しい下働きの少女が〈小さな不器用な作りのピンクッションをプレゼントする〉というエピソードをなぜか好きなのだと金井美恵子が語るとき、そのエピソードが何かを暗示するものでも示唆するものでもなく、ただ〈貧しい少女のつつましやかな自尊心ともいうべきエピソード〉であることを金井美恵子が語るとき、例えば〈肉屋のお嫁さんの人生について、何の疑問もなく、地下の狭い店内で揚げ物を揚げつづけるだけの人生、と決めつけて、そのうえで、それを考えるとその変化のない平板そのものの無限

          金井美恵子『昔のミセス』雑感メモ。少女の自尊心と紋切型の感慨と森娘の膀胱。

          金井美恵子『昔のミセス』を読み返してしまう理由。

          金井美恵子を夢想なり記憶なりへと誘う、物語ではなく、物。つぶさで細かで近しく有用であったり無用であったりする物、手袋やピンクッショやダルナさんのブラウスや〈古い鏡付きの小さな箪笥の上に飾られた花の写真〉や料理カードや広告ページや〈68年九月号の森茉莉「私の美男子論」の北杜夫の写真の本棚〉に写っていた大江健三郎の『万延元年のフットボール』や澁澤龍彦のエッセイや〈京都・柏原氏邸の夫人の部屋〉や森茉莉その人の写真、などの、どこまでも具体的な物たち。それらによって引き出された夢と記憶

          金井美恵子『昔のミセス』を読み返してしまう理由。

          『金井美恵子全短篇Ⅰ』メモ②

          作家に〈死〉は訪れない。完成としての〈死〉は、恩寵としての〈死〉は訪れない。作家は自らに結びつく〈死〉を見つくそうとして、限りなく〈死〉へと接近するけれど、作家は完成としての〈死〉へは至り得ない。〈死〉を語るためには、いずれにせよ〈死〉から戻って来る必要があるからだ。書くことの内にある作家はその行為自体が持つ命運に囚われている以上、それゆえに死ぬ訳にはいかない。作家が〈死〉を完成させる時、作家の分身たる〈あなた〉もまた消滅する。わたしを外側から見るもう一つの眼、内なる他者であ

          『金井美恵子全短篇Ⅰ』メモ②

          『金井美恵子全短篇Ⅰ』メモ

          〈「書くこと」をどう始めるのか、エクリチュールというのは、自分にとって何なのか〉〈エクリチュールにとって私とは何なのか〉…小説はどのようにして書かれたのか。そのはじまりの迷宮性を含む行為そのものが持つ謎、魅惑しつくされた者の執拗さと緊張を以って、決して解け得ない謎と向き合う者の情熱と気怠さを以って、まるでそうするほか(幾度となくそこへ立ち戻って行くほか)ないかのように、〈書くこと〉を問い続ける作家の手によって。小説はどのようにして書かれたのかということ。〈…書くということにつ

          『金井美恵子全短篇Ⅰ』メモ