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ポン! わたしの こころに つたわったよ


雑誌『精神療法』のアサーションの特集で、複雑性PTSDとアサーションについて原田誠一先生が書いていたのだが「え?ちょっと特集に関係なくない?」と驚いてしまった。

一見アサーションとは関係なさそうな、著名な先生方の複雑性PTSDの精神療法についての解説であったのである。


「原田せんせー、今回はアサーションの特集ですよー。いくらPTSDのテーマを与えられたからって、違う精神療法の話ばっかじゃないですかー。とくに神田橋條治先生の「自閉療法」なんて、もう「自閉」って言ってるじゃないですか。自己主張と真逆っすよー」


とツッコみかけのだが、これがこれが、読み終えたときには


「きゃああぁ、たしかにアサーションだったあぁぁ!」


と納得できるとともに、目から鱗がちょちょぎれるのであった。自分はちょうど複雑性PTSDの治療をどうしていくか考え込んでいたところで、それが大きく打開される想いであったのだ。



アサーションは一般的には、他人を傷つけず自分も大切にする自己主張の方法として知られている。だが原田先生はこの一般的なアサーションを外なるアサーションと捉え、さらに「内的なアサーション」について言及するのである。


個体(人)は外(環境)からの情報に対し


 受信 ー 情報処理 ー 発信 


というプロセスで反応する。外界の刺激に応じてその環境の中で生存しつづけるためのいろいろな方略は、これに基づいて作られる。


原田先生の見方では、これをコミュニケーションにおいて適切に行うのがアサーションだということになる、と私は理解した。この構造を踏まえると、内的なアサーションでは「からだ」が感じるものを、受信する情報とすることになる。

内的な「感覚に対応して動き、それをまた感じる」までが内的なアサーションということであるが、感じたものはさらにまたフィードバックされ、環境への適応に利用されていくのであろう。


さて、内なる声を敏感に捉えた上でそれに反応する、ということであれば、たとえば


  他人と関わるときに『気持ちが悪い』感じがあることに気づいた

 → だから人を避けることにした

 → それでどうにかなり、ほっとできた


というのも立派にアサーションである。これを目指すのがすなわち自閉療法である。これは私の臨床に必要な視点であった。



絵本『ピン』ではこの「発信」だとか「対応」だとかいったことをピンポンの『ピン』、すなわち球を打つことで表している。その結果としての相手の反応が『ポン』だ。話を発信のほうから始めている。その後で、何をどんなふうに『ピン』するかについて語られている。


ところで私は児童が、哲学と心理学の本を読むことには警戒する。それらの学問は、幼くして学ぶ意義が高いと思うが故にである。その学びは、言葉による「AとはBである」という情報では与えられないほうが良い。


哲学なら自由に思考することで、心理学なら生活の中で試したり巻き込まれたりしながら体験をすることで学ぶものである。誰かの「答え」をもらってしまうことは要するにネタバレだ。哲学なら思考するチャンスを奪ってしまうし、心理学なら生き生きとした手触りを奪う。どちらも、新鮮に楽しめたはずの機会を永久に失わせることになる。


だが逆に、直接の体験ではないが大歓迎なものが2つある。


ひとつ目はすぐれた問いである。それはひとつ与えられるだけで、与えられた側が無数の「AはBである」を発信する側に回れてしまう。


もうひとつはすぐれた喩え話である。なじんだモチーフで遠回しに語られることで、実はすでに知っていることに気づかせてくれる。そこでの「AはBである」は降り注いでくる新情報ではなく、「あるある」「そういえばそうそう、AってBだよ」という感想になる。


芸術の役割は、こういった間接的な体験にあるのではないだろうか。



そうそう、私たちはピンポンをしていた。そうそう、自閉はアサーションだ。そうそう、患者さんに必要なのはしなやかなピンポンだったんだ…


比喩がくれるイメージが、論理よりも力強く雄弁だ。明日の臨床に携える、力強い物語を得られた。



#読書の秋2020

#ピン


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