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脳観・こころ観

ヤスパースは精神について簡単な根本概念で説明して満足しようとするいくつもの見方を『先入見』と呼んで批判した。『身体的先入見』とは、脳のしくみから心のことはもう判っているという論を批判して述べたものである。


こころはどこにあるか? 現代人に聞いても、答えは割れる。


かつて心は心臓にあると思われていた時期があった。

「心」という文字は心臓のことをも表すし、それは他の言語でも同様である。緊張するとたしかに胸がドキドキする。


いっぽう、「お前の頭の中身がどうなっているのか覗いてみたいよ」などともよく言う。こころが脳にあると信じているからであろう。

だが実際に脳を切り開いたところで、「こころ」だの「考え」などというものは少しも見えない。そもそもこころが脳にあるなんて言い切れるのか? 船のマストが遠方で沈んでいくのを目で確認したことのない人でも「地球が丸い」と言うのと同じで、だれかが確かめたことを、信じているだけであろう。多くの一般人は、実際に脳を見たことさえないはずだ。

だから「脳というのは・・・」と誰かが述べるとき、その根拠は伝えられた知識・情報に頼っていることが多い。私だってそうだ。時々脳を語るが、それは『解剖学講義』『標準生理学』を筆頭とした無数の書物からの知識によってできあがった脳のイメージ、「脳観」からの話である。


まあこころが脳にあることを否定するわけではないのだが、そうは言っても少しはそこを考え直してもよいのではないかと思う。



私の若い頃は『大脳生理学』という呼び方をしていた。もう『脳科学』という言葉が定着しているのでその呼び方を用いる。『脳科学者』を名乗る人は、人が見たことのない脳についての知見を、水先案内人のごとく伝える役割を担っている。

脳科学が果てしなく進歩し多くのことを明らかにしているとはいえ、そんなに何でも解明されているわけではない。にもかかわらず脳の解明によってすべてが判るのだと言い切ることのうすっぺらさについては、ヤスパースが前世紀早々に批判していた。


私は脳について、まるで見てきたようなことも言ったりする。なんせ見てきたから。死んでいる脳も、生きている脳もだ(手術場でよく見ていた)。するとそれは、経験として語る、ということになり、これは手応えのある話になる。ありありとした脳に対する実感である。


「こんな生の脳を見ると、霊魂だのなんだのって信じらんないよね」と言っている人もいた。まったくそうは思わなかった。脳を覗いても、こころは一向に姿を現さなかったからだ。その人の言い分に従えば、こころさえ存在しないということになる。だがこころがあることを疑う人はあまりいない。疑うどころか、こころについては脳以上に各自が勝手なことを述べる。


それは、こころについての実感があるからだ。目に見えるとは言わないが、日々これ以上ないくらいに身近に付き合っている。かの疑い深きデカルト先生だってそこは疑わなかったほどである(厳密には「思う」ということをであろうが)。


だがこころについてのありありとした実感( = クオリア)を持てるのは、自分のこころについてだけである。他人のそれについては、実在を証明できない。にも関わらず人は、他人のこころについてさえあれこれ言う(『素朴心理学』とやや揶揄気味に呼ばれている)。



脳科学は、こころがどう生まれるかについては明らかにしていない(まさか明らかだと思っている人がいただろうか?)。



こころとはいかなるものか? 古代ギリシャの時代からこのようなことは議論されてきた。アリストテレスは「脳の機能」としてこころを論じたようで、これはなるほど、うまい説明ではないだろうか。だが話はそう単純ではない。脳の機能なら、行動を司ることだと言える。クオリアがその機能の中に入るとは(おそらく言えるのであろうが)証明はされていない。



こころの各機能に与る脳の場所も判っている。この部位は手の感覚に、この部位は喋ることに与っている、といった脳の地図が出来上がっている。特に近年は脳画像を観る技術の進歩のおかげで、脳の形ばかりか、どこがどれだけ働いているかということをリアルタイムに観察することさえできるようになった。

こころの動きに合わせて脳画像が変化するのを観ると、見えないはずのこころが、ついに見えてしまったかのように錯覚する。それほど画像というものは雄弁だ。「脳科学」という言葉がしきりに使われるようになったのも、2000年以後、fMRIなどの脳画像技術が進んだ頃からである、と指摘する人もいる。


だが、橋本環奈を見たとき脳のある場所が光ったからといって、判るのは、「橋本環奈に反応する脳神経(それはあなたの脳にも必ずある)がそこにある」ということだけだ。どんな情報がどう処理されているかは不明である。それがどう橋本環奈イデアとクオリアを作るかはもっと不明である。



まだまだ新しい知見は出て来る。かつて言われていたことがひっくり返されつづけている。脳はブラックボックスとまでは言わないなら、せめてグレーなボックスくらいに思ったほうがよいように思う。



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