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福祉と援助の備忘録(9)『医者の影響力が大きすぎるとまずいという話』

福祉と援助の備忘録を続ける。世界人権デーと関連して、だれが治療方針を決めるのか、という話をしたい。


Nothing about us without us

なんであれ、人は誰かになにかを無理強いさせられるのはいやだ。恐ろしいことである。たとえば今の時代は個人情報が守られるが、それは「私の情報の行く末が私の知らぬところで決められる」のがみんないやだからだ。今の世では「自分のことは自分で選べること」がもっとも大切だとされる。決定権という権利のひとつであるが、そもそも権利とは決定権のことだ。
おそらくすべての人の人権である決定権を尊重する。その潮流については口を挟む余地は基本的になさそうだ。じゃあ患者の決定権も侵害しないようにしよう。なにはともあれ尊重しよう、決定権!


薬を「使う」のは誰?

ではたとえばユーザーは、薬に対して、種類や剤型、量などに実際にどれだけの選択肢を持っているだろう?まず、ある薬を望むためには当然その薬を知っている必要がある。詳しい知識と言わないまでもなんらかのイメージくらいは持っていないと、候補として思い浮かべることさえできない。ましてや、「第何世代の○○が希望で、、」などと言える人はわずかであろう。

・・と書いて、「ユーザー」という言葉を、まさか医者のことだと思う人がないか心配になった。たしかに「先生はどの薬を使いますか?」という具合に、処方することを「使う」と言う。本当に使っているのは患者のはずなのに。
そこから考える。「使う=処方する」という語用は責められるべきなのか。「匙加減」という言葉もあるように、医者はわずかの薬の配分に心血を注ぐ。処方箋の頭の”Rp)”とは“レシピ”の略である。 料理を食べる人が食材や調味料を「使う」とは言わない。「使う」のはやはりシェフであり、だから「医者が薬を使う」の語用だって問題ないように思われる。


一方でこのことが、患者が主体的に治療を選ぶのが、とくに薬については程遠いという現実を暗に表しているようにも思われるのだ。医者の腕がよいとか、熱心であるとかはここでは関係ない。ちょっと考えてみよう。

「先生はデイケアを使いますか?」
「先生はリハビリを使いますか?」
「先生は自助グループを使いますか?」

これらのいずれの表現もなされない。不自然にさえ感じる。上の二つなどは医者の処方箋が必要であるにも関わらずだ。それはこれらが、比較的医者の関心の薄いものだからかもしれない。逆に、薬の処方については医師の関心が高く、医者が主体的に扱っているということになる。


インフォームド・コンセントの功罪

さて患者が主体的に治療に関わるということについて言えば、以前は「インフォームド・コンセント」という言葉があった。いや、今もあるのではあるが、少し古いものになりつつある。インフォームド・コンセントは、「素人である患者が知識を専門家に補ってもらった上で、決定権がまるっと与えられる」ということだ。一見よさげに聞こえる。



だが少々面倒な話がここに浮上する。まだまだ日本では自分で治療法を選択するよりも、「先生にお任せます」を好む患者が多いのだ。決定権が放棄されている!権利なので、行使しないのも権利であるからよいのだが、実はそのほうが患者さんは幸せだという報告があり、考えさせられる。
「黙って私についてきなさい」式のフランスのパターナリズム医療と、アメリカ式のインフォームド・コンセント医療について患者の満足度を調べた研究があるのだ。それによると、治療を選べない前者のほうが、選べる後者より満足度が高かったという。



そもそも医者のていねいな説明は、心から患者のためを思ってされているとは限らない。

美容師には「仕上がった髪型が気に入らない」と客に訴えられ負けた人がいる。医療は髪型どころの騒ぎではない。臓器をも切り出すことさえある。だから、たとえ医学的には適切なことであっても、本人が決めず、納得のないままそれがなされれば、患者は後から訴えることができる

たとえばあまりばらしたくはないが、インフォームド・コンセントにおいては医療者が、まだ保険診療が認められていないような最新の治療法についても説明しておかないと、訴訟で負ける可能性がある。そういう判例がある。患者は「最新の○○療法について教えてもらってさえいたら、あんな手術は受けなかったのになあ」などと、後出しジャンケンしていいらしいのである。

これでは医者がおっかなびっくりになるのも解らぬではない。だからインフォームド・コンセントとは、いつ自分を訴えるかもしれぬ顧客に「『ちゃんと言いましたからね』とというアリバイを作ること」なのだ。訴訟に勝つことだけを目指す医療というのは何かがおかしいとも思うが、訴える人が多い以上、それが逆行できなくなってしまった。


シェアード・デシジョン・メーキング登場!

だが「言うこと言ったから後はあんたが決めて。もちろん自己責任でね」と患者を放り出すやり方はやはり乱暴だ。そこで、(やっていた人は以前からやっていたのだが)「専門家は、患者さんとともに決断に大きく関わる、というスタンスに立てばよいのでは?」という考えが生まれた。SDM、シェアード・デシジョン・メーキングの登場である。

このシェアード・デシジョン・メーキングは、決定権が医師にある「パターナリズム」と、患者のほうにあるインフォームド・コンセントの中間のものである、と言う人があるが、私は少し違うと思う。決断の割合の問題ではなく、双方がうまく合わさり質的に異なる新しいものになった弁証法的な統合と理解している(まあ観念的でどうでもいい話かもしれないが)。


患者のことは患者に聴け

ただ、我が国の現状は、インフォームド・コンセントさえ充分に広まりきっていないと言ったほうがいいだろう。いまだ「ムンテラ」(ムント・テラビー。『口の治療』という意味の和製ドイツ語。「口先だけでお茶を濁す」というニュアンスを含む)のほうが馴染んでいるのではないか。
ムンテラは外科医がよく使う。さすがに手術ともなると、患者とその家族に念入りな説明がなされる。それは企業が迷惑施設を建てる時などの近隣住民への説明会のようなものだ。たいていは手術ありきの説明で、代わりの手段は用意されていない。質問に答える機会作り、というくらいの役割である。
本来患者は何度でも質問する権利があるし、手術をしない選択肢を取ることもできる。だが実際に患者や家族が質問を重ねると、医療者に「うるさい患者だ」などと悪印象を持たれることがある。仮に持たれなくても、家族としては「持たれるのではないか」という心配をする。ましてや「手術には抵抗が・・」などと言おうものなら強硬に説得されるか、「じゃ、勝手にどうぞ」と放り出されるのである。
たしかに、面倒な質問をするという人がいないわけではない。住民への説明会同様、ちょっとひと癖ある第三者的な人が己の存在をアピールするために、「手術には反対だ!」などと言うことはある。だが大半は、治療や健康に対する心配から質問を重ねるのであり、悪意のあるものではない。
そんな患者の思いを踏まえず、「手術は絶対に必要なのに、それが解らないのは患者の理解力不足だ」という医師の決めつけには賛同しかねる。医療ギルドは業界の常識を押しつけすぎである。学問的にもしばしばまちがっていることだって多いのに。それに、「正誤」を超えた視点だって必要なのだが、その手の発想が絶望的に欠けている医者が多いように思われる。

こうなると、医師と患者は分かり合えない人種、ということになってしまう。バカの壁(双方にあるバカの壁である)は容易に超えられるようなものではない。


改めて薬の話

話を薬に戻す。手術にはそれでも「ムンテラ」があるだけいい。大ごとだから説明してもらえる。だが薬はもっと手軽に出されてしまう。医師に与えられている時間も少ない。患者が行列をなしている中での、五分診れば長いというほどの診療の中で、さっさと選択されてしまう。数多の選択肢はあれど、決断については医者によるものが大半のウェイトを占めてしまう。

言われた通りに飲まない、ということでしか患者が選択権を発揮できないというのは不健全な関係性である。しかも先ほど述べたように、決定・選択を放棄したほうが幸せになれるという現状もある。もう、どうしたらよいのだろう?これでいいってことか?人権と幸福は別物と考えたほうがいいのか?でも時代は幸福を捨て、決定権を優先し、その圧力を医者にかけていくのか?


医療者には「医学的に正しくないことを選ぶ権利」も尊重した上で「強引に説得する」と「見捨てる」の両極端にならぬ道をどうにか探ることが求められるのではないか。一方で弁護士などの人権を考える人たちには、「決定権=幸福」という思い込みを今一度再考してもらったらよいのではないか。


いずれにせよ、医療者も人権擁護家も患者本人も、目指しているのは患者の幸福である。それを薬の選択という細かな手段にまで徹底して追求していくやりかたについては、この先、二転三転するように思われ、考察・試行錯誤が必要であると思われる。今とりあえずの、シェアード・デシジョン・メーキングだ。


Ver 1.0 2021/12/9
Ver 1.1 2022/2/17

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