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行動経済学備忘録(1)

抄読会で"Learning and Behavior Therapy"

を読んでいるのだが、第14章 行動経済学、まあ知らないことばかりである。行動経済学の名を冠した本が世に溢れているが、この本には、市販のどの本にも書かれていないことがいろいろ載っている。

主要な研究は1990年代のもので、古いと言えば古いのだが、行動分析については1960年代くらいまでの知識にとどまっている心理士が多いだろうから、多くの人にとって盲点になっているのではないだろうか。


ここで「経済学」という言葉について考えておきたい。その定義は揺れている。

「人間社会における物質的な生活資料の生産と交換とを支配する諸法則についての科学」  F・エンゲルス(『反デューリング論』)
「代替的用途を持つ希少性のある経済資源と目的について人間の行動を研究する科学」  L・ロビンズ(『経済学の本質と意義』)
「人々ないし社会が、家計の媒介に よる場合よらない場合いずれも含めて、いくつかの代替的用途を持つ稀少性のある生産資源を用い、時間をかけて様々な商品を生産し、それらを 現在および将来の消費のために社会の色々な 人々や集団の間に配分する上で、どのような選択的行動をするか、ということについての研究」  P・サミュエルソン(『経済学』この訳はhttp://www.nakamura-u.ac.jp/~kikkawa/economics_introduction8.pdf より引用)

こういった定義が、

「いや、経済は道徳的価値とも切り離せないだろ。物のことばっかり言うな!」

と、経済学の内輪からの批判にさらされるらしい。

ただ、「生活資料」「生産資源」という言葉を使わなければよいだけの話で、「経済資源」の中に道徳的なものも含めたあらゆる「価値」を放り込んでしまえば、その「価値」の、各定義にくり返し登場する「代替性」、あるいは「交換」に関する学問だ、ということになるだろう。

「道徳的価値は交換の対象ではない」と批判する人は、それが本当かどうかを「学問として」考察すればよい。「交換すべきではない」は倫理学の問題であって、「交換できるかどうか、どう交換されるか」はあくまで経済学という学問の探求対象であろう。

たとえば「愛は金で変えない」と道徳家や宗教家が思うのは自由だが、それは正しくは「愛を金で買うべきではない」であって「買うべきではないものを本当に買えないのかどうか」は、(その問いが不遜だとしても)学問の探求対象となりうるのである。


ということで、


 経済学 = 「異なる価値の交換」についての学問


が、私が考える最も簡単な定義である(「希少性」も必要条件ではないのではないだろうか?)。

平たく言うと経済学とは

「取り替えっこのしくみ」

である。

(「単一の価値の分配」という考察対象もあるかもしれないが)


どの定義にも、もうひとつくり返し出てくる言葉が「人間」である。

だが、価値の交換は、人間に限った話ではない。

行動分析学は心理学のひとつであるが、その対象は人間だけではなく、他のネズミやハトといった動物でも構わない。それで学問体系として見事な成功をおさめている。

よって経済学の定義の中に、「人間」という言葉もやっぱりいらない。

むしろないほうが本質的だ。

私には、他の動物における「価値の交換」を踏まえずに経済学を考えるほうが、誤った結論にまみれやすいと思われる。さきほど述べた「愛は金で買えない」式の色眼鏡が入りこむ余地ができるからだ。そうならずに、個人の「そうあってほしい」という願望を切り離して、実験や観察による事実を捉える必要がある。

 

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