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行動経済学備忘録(11) 罪と罰と自由意思6

3歳の娘が食事中
「長くもぐもぐしていたらママに怒られる。早く飲み込んだら怒られない」と言った。

「長くもぐもぐしなかったら怒られない」と言ったのではなく、「早く飲み込んだら怒られない」と言ったところがさすが我が娘である。「もぐもぐしない」は行動ではない。「飲み込む」は行動である。変容する行動を、驚くほどきちんとおさえている(これは臨床家でも苦労するポイントなのに)。

さて「長くもぐもぐしていたらママに怒られる」は叙述(タクト)されたルールである。ルールとは行動を支配するもののひとつである。

娘は良い具合にそれを受け入れ、ルールを自分で述べながらルール支配行動をしていた、というわけだ。


仏教の五戒やモーゼの十戒。宗教的な、天から降ってきたことになっているルールも、結局生き物としてそれに従ったほうが都合が良いので、元々プログラムされているのだろう。それなりに納得のいくルールが多く、ある意味本当に神が作ったルールと言ってもいい。それに従うことを善行と呼ぼう。逆は悪行だ。

善行はコミュニティー全員のためになるが、それをなす個人の得になることでもある。だから本人がそれを望んで自身を改めようと奮闘しているときもあるし、あるいは自分のためになることでもそれを望まない場合もある。


人を善行に導き、悪行から遠ざける。これはコミュニティーの大きな課題である。どう導くか、は「罪と罰と自由意思」の応用編である。

子育てでの「しつけ」もその課題を果たすひとつの形である。善行を為す頻度を上げる、「善行を強化する」のがしつけということになる。

「治療」というものもある。嗜癖の「治療」は、「悪癖をやめさせる」がテーマである。


そこで、行動変容を導く例として、アルコールの嗜癖の治療というものを考えてみることにする。

アルコールの嗜癖について言えば、酒を飲むのを「悪」とまで言うと大げさではあるが、それを禁じる宗教がいくつもあることを考えると、少なくともたくさん飲むことは良いことではないと言って差し支えなさそうだ。美徳に反するというのもあるが、さまざまな問題に結びつき大損をもたらすという点で、明らかに功利に反する。損得は経済学の範疇の話だ。

ではどうやって行動変容に導こう?他人はアルコール使用障害の者の行動に、どう影響を与えられるのだろう?


やりかたはいくつかある。それぞれ影響力は異なる。

「アルコールの嗜癖者に病院での治療を受けさせる」という課題については、古い研究ではあるが、3つの方法を比較したものがある。有名なアルコール自助グループに行った人たち、有名な施設のプログラムを受けた人たち、嗜癖当事者ではなく家族が"CRAFT"というコミュニケーションの仕方を勉強した人たち。それぞれの成績はどうであったか?

自助グループで1割、施設のプログラムで3割、家族が勉強した群では6割5分の当事者が、受診につながったという。かなり顕著な差である。私もCRAFTを教える立場として、この研究結果は家族への宣伝のために引き合いに出させていただきたい。


CRAFTを始めとする、スマートに人を動機づけるやりかたについて簡単に説明しておこう。


人は自分の内側から発した動機では進んで行動するが、ルールを外から「〜しろ」と命令の形で押し付けられたら(命令言語行動:マンドと言う)、あまり行動しなかったり、反発したりする。


「酒を飲むな」と耳にタコができるほど言われている者に、「酒を飲むな」マンドするのは芸がなさすぎるのだ。

自ら動き出すぎりぎりまで悪くなるのを待つ、いわゆる「底つき体験」を待つというやりかたも危険である。たしかに危機感は人を動機づけるものであるが、ただ時間が過ぎるに任せるだけでは人は危機感を抱かない。底というのは相対的なものなので、ゆっくり自体が悪化すれば、底は「死」の下にまで行ってしまう。

「底上げ」が必要なのだ。これは言葉遊びではない。


まずざっくり言うと「優しい対応」が必要である。だがCRAFTや動機づけ面接などの講義をしていて思うのは、「優しい」「受け入れる」「傾聴する」といったことを強調すると、当事者の家族は「自分たちの対応が悪いから、家族は酒を飲みつづけるのだ。まだまだ自分たちには優しさ、受容が足りないのだ」と自罰的になりがちなので注意が必要だ。

優しい対応と言っても、要は「しろ」とか「やめろ」とか言って無理やり相手の顔をそちらに向けるようなやりかたはしない、ということである。また、すべてを黙って受け入れるわけでもない。そこには方向性がある。簡単に言うと、好ましい「善行」のみにご褒美を与える。悪行は受け入れない、ということである(責めもしないが)。


3つの介入方法で当事者の受診行動に大きな差が出たということの意味は、本人の努力よりも確実に影響を与える、外部の環境要因がある、ということである。自助グループの中でも再三言われることだが、個人の意思の力で嗜癖を乗り越えるということはあまり期待しない。意思の力の影響など、微々たるもので、ともすればないからである。

なのに環境によっては、人はずいぶんと変わってしまうのである。べつに洗脳されているわけでもない。


だが人々が「悪人」を責めるとき、悪を為した人の「意思」に注目している。善意や、誘惑に抗い自分を律する厳しさが、足りなかったということを責めている。だが上記の研究結果を見るに、本当に欠いているのは、良い環境や適切な関わりである。

「悪い人」と我々がつい思ってしまう人は、「境遇の悪い人」あるいは「運の悪い人」でしかないかもしれないという、悲しい事実である。しかもこのことが容易に無視される、という点については、恐ろしい事実と言ったほうがよいかもしれない。


Ver 1.0 2020/8/27



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