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【数理小説(6)】 「デデキントの切断」

 日曜日の益間家のこと。父の理に切ってもらった小さな羊羹を、姉の幾代と分け合った妹の量子が、突然に叫んだ。
「あーん、お姉ちゃんずるいよー」
 包丁を持ったまま、父親がかけよる。
「どうしたんだ?量ちゃん。急に泣き出して」
「だってお姉ちゃんのほうが多いんだもーん…」
「なんだって?いやいや、そんなはずはないよ。どちらの羊羹も、寸分の狂いもなく同じ長さだ」
 理が手にしている包丁は、「二次元包丁『分ける君』」という。職人が丹誠込めて刃を研いだ末、刃の幅はあるが、厚さは0ミリメートルに達したという切れ味抜群のすぐれものである。
「同じじゃないもーん。3がお姉ちゃんのもんだもーん。あたしには3がないもーん」
 娘のその言葉を聞いて、しまった!と、理が言った。そこに母親の文が現れた。
「量子はなにを言っているの?この包丁で切ったんだから、長さはおんなじでしょう?あの、なんとかっていう定規で測ってごらんなさいよ」
「同じじゃないんだもーん!」量子はかえってひどく泣き出した。
「なんかわかんないわねえ。しかたないからお姉ちゃん、交換してあげなさい。どうせ同じだからいいでしょ」
 母親の言葉に対し、それまで上機嫌で「10人のインディアン」を歌っていた姉の幾代は、血相を変えて皿を持って、窓のある部屋の端まで逃げ出した。
「やだ!有り得ない!」
「どうしてそういうこと言うの。どっちもおんなじでしょ。まったく姉妹で」
 見ると理も頭を抱えている。それが、娘たちが意味のないことで争っているから、というのではない様子に見えた。この家では、母親だけが理解できないでいる状況になることがとても多い。また今回もそういう事態のようだ。
「あなた、どうしたのよ?」
「うーん、困った。この羊羹の長さは6センチメートルだった」
 文は理の話を聞いて、すぐに口を出した。
「だから3センチメートルずつ切ったんでしょう?そこをまちがったんじゃなければ、いいじゃないの」
「3センチメートルずつ、というのは正しい。だが、切り分けた二つの羊羹は同じじゃないんだよ」
 文はもう一度羊羹を見た。栗が入っているわけでもない。完全に一様な黒一色である。
「どこも違わないじゃないの!」文が少しずつ、いら立ち始めていた。
「ああ、そのだね、つまり、この羊羹の長さは同じでも、端っこは違うんだよ。端点があるかないか、つまり閉区間か開区間か……」
 理は文の顔を見ながら話し、使う言葉が通じていないのを察すると、とっさに言い換えた。
「ええっとね……つまりね、羊羹の長さは6、0から6までの数字だと考えよう。僕は0以上3未満を量子に、3以上6以下を幾代に与えた。だから3は幾代にはあるけれど、量子にはない。たった一点ではあり、それだけでは物理的には質量も存在しないことになるけれど、数学的には実在している点なんだ。それが二人の羊羹の差となって現れた」
「はあ?そんな切り分けができるの?なんなの、それ?」
「できるんだよ。この『分ける君』は、想定した分数に合わせて切り分けを可能にしてしまう。羊羹のほうもすぐれた一品で「実のつまった羊羹『稠蜜』」と言ってね、超甘いという意味とかけてあるんだ。なかなかおもしろ……くないですね。ハイ。とにかく、量子が持っている数は、2.9 , 2.99 , 2.999 、2.999999999 ……3よりは小さいが、いくらでも3に近い数字は含んでいる。でも3そのものは含んでいない。3未満とはそういうことだ。この包丁はそういう風に切り分けられちゃうんだよ」
「要するに違いっていうのは、たったの一点が余分にあるかないかってだけ?」
「点じゃないもーん。面だもーん」
 量子が泣きながらも正確な物言いをしたことに、さすが我が子と理は誇らしく思いかけたが、文の顔を見てかしこまり直した。
「ふん、だったらうまく切ればいいでしょ。3以下を量子に、3以上を幾代に与えればいいじゃない」
 文が言ったが、理の困惑した顔は変わらなかった。
「いやー、その、この羊羹はそうはいかないんだよ。端から3の距離にある面というのは一つしか存在しない。」
「平等に切り分けられないものがあるっていうのが、ほんとはまだ納得がいかないんだけど」文がふてくされきた。
量子は「あたしもはじの数字がほしいよお」と父にすがってきた。
「量子。あのね、端の数字って言うけど、あんただって、3のとなりの数字があるからいいでしょ」文が言った。
理が応じる。
「文。3のとなりの数だなんて、そんなものないよ……」
「だったら量子の羊羹の端っこはなんなのよ。端から3センチメートルの面じゃないっていうんだったらいくつなのよ」
「……ええと、存在しないんだ」
「ハア?そりゃないでしょ。切った面は現に存在しているんだから。ほら」
 文は量子の皿を取り上げ、羊羹の面を理に突きつけた。
「いや、それが……ここが『分ける君』と『稠蜜』ならではの特異な現象なんだけれど、量子の羊羹には端の点は存在しないんだ」
「あはは、切れが味がわるーー」幾代が量子を冷やかした。文が「やめなさい!」と叱った。理は「またうまいことを言った」と思いつつ黙っていた。
「ないものはないんだよ。3のとなりの数字ってなんだい?」
「あたしが知るわけないでしょ。どうせあなたがバカにする文系なんだから。でも、数字の隣に数字がないわけないでしょ?3の下の、2.9999999999999999とかそういう、ものすごーく細かい数字よ。きっと。量子が持っているいちばん大きい数字」
「だからないんだって」
「数字なんて順番に並んでいるんだから、いちばん大きいのがないわけないでしょ!うちの娘はいちばん上の子が幾代で、いちばん下の子が量子。これって自然なことでしょう?」
「いやー、そのー。あ、じゃあ、その2.9999999999999999と3を足して2で割ればどうなる?」
 理は文が言った数字を正確に再現した。
「めんどくさいわねえー。ほんとどうでもいいんだけど」
「2.99999999999999995だよ。つまり、さっき言った数字は3の隣の数字じゃなかったんだよ」
「じゃあそれが隣の数字」文はぶっきらぼうに言った。理は続けた。
「じゃあ、ではその2.99999999999999995と3を足して2で割れば?それは2.999999999999999975だ。やっぱりその間に数字があった」
「無限に続くじゃない!」
「無限に続くんだよ。どんなに3に近い数字をあげても、3と足して2で割れば、それよりも3に近い数字が出てくる。つまり、量子の羊羹には、端の点というものは存在しない。最大の数字、なんて存在しないんだ」
「だったら逆に幾代の端っこの3も切り落とせばいいでしょ。二人とも平等になるんだから」
「3だけを切り落とす?そのためには何ミリメートル切り落とせばいい?いや、ナノメートル、ピコメートルでもダメだ」
「だから3だけを切り取ればいいでしょ!」
「この包丁で切るときには、長さを想定しなくちゃいけないんだよ。3だけっていうのは無理だ。長さがゼロだからね。限りなく小さく切ったとしても……」
 だが文はうんざりとした顔で、手で理の発話を静止し、言った。
「もう、けっこう。まったく、どうしてそんなややこしい結果になるような包丁と羊羹を買ってきたの!」
「平等に分けないと二人ともうるさいんだよ。だから限りなく平等にしようと思って正確に二等分できる包丁と、なめらかな舌触りの羊羹を買ってきたのに、まさか端点で争うことになるとは……」
「あんたが二人の小さい頃、絵本の代わりに『ファインマン物理学』とか高木貞治先生の『解析概論』を読みきかせたりするから、こんな風に育ったのよ。いや、胎教のころからやっていたじゃない。ふつうに白雪姫とかシンデレラを読ませればよかったものを」
「ああ、でも、まだ分数とか小数しか理解していないから、小学校の算数レベルのことしか解っていないはずだよ」
「あたしは小学校の頃は算数の成績も悪くなかったけれど、この子たちみたいなことを言った覚えはないわよ。どう考えたってうちの会話は異常でしょ。さあ、あんたたち、もうバカなことで頭を悩ませるのはいいかげんやめなさい!どうせどっちも無限なんだから、その中の1点くらい、大して違いはないでしょ。難しいこと考えるからめんどくさいことになんのよ。さっさとなにも考えずに食べなさい」
「おお、ママは今、測度論の本質に迫るすごいことを言ったね」
 理は褒めたつもりらしかったが、文が喜ぶわけはなかった。量子は母の言葉に納得しなかった。
「違うもーん。同じ無限っていうなら、たとえ1ミリだって、そこに含む数字は無限だもーん。だからあたしが5センチ9ミリもらって、お姉ちゃんが1ミリだけもらえばいいのよ。よこしなさいよ」
 量子が幾代につかみかかろうとし、「無理よ」と幾代が応戦したので、文が「これ、やめなさい」と言って二人の間に分け入った。それを見ていた理がポンと手を打った。
「そうか。無理。それだ!」
 それまで控えめな声で話していた理が、突然大声をあげたので、もみ合っていた三人はいっせいに父のほうをみた。
「ひとつ聞きたいんだが、お前たち。実数ってわかるか?」 
 娘たちはポカンとした顔をした。母親も似たような顔をした。
「じゃあ、無理数とかは?円周率とか、eとか、ルートとかは?解らない?そうか!ようし、ちょっと待ってなさい」
 そう言うと理は財布を持って表に飛び出した。
 
「見てくれよ、これ。買ってきたんだ。『分ける君』の職人よりもさらにすぐれた、匠と呼ばれている人が作った二次元包丁『無理』だ。匠は「で、出来んと?」と言うのが口癖で、無理だと思われることに挑戦しつづけてついにその無理を可能にしてしまったということからこの名前が付けられたらしい。かっこいいだろう?」
 文はもはや言葉では抵抗せず、ただあきれた顔をした。理は夢中になって続けた。
「宣伝文句が「パイを切り分けるにも便利です」だなんて、ニクいこと言うじゃないか。さ、さっきの羊羹をよこしなさい。もう一度くっつけるから」
 そう言って理は羊羹をつなぎ合わせた。便利なことに、超蜜羊羹はきれいな断面同士をくっつけると、またもとの一つの羊羹になるのである。それから彼は、こういった。
「ふふふ、やっぱり羊羹の幅は黄金比になっていたか。ならばこの包丁でφの半分のところで切って……」
 理は羊羹を、今度は縦に切り分けて二人の娘に分け与えたのである。どんなに細かい分数でも測れる定規を使い、姉には最小の数、妹には最大の数がない、ということがわかり、二人とも平等だと満足した。だが父は、本当は (1+√5)/4  の点が量子のほうにあるんだけどな、とひそかに思いながら、微笑ましく眺めていた。
 いっぽう文は、羊羹の幅を1と考えれば、半分に切ったことには変わりないのに、と思ったが、それ以上考えるのをやめた。
 羊羹を食べ終わると、今度は姉妹でいっしょに「ひーとりふーたりさんにんのインディアン♪」と歌い出し、それから父のほうにかけてきた。
「ねえ、パパ。ルートってなに?」
「実数ってなあに?」
 理は、この平和も束の間だな、と思ったものの、それを妻に言うのはやめた。

 〈了〉

Ver.1.0 2020/05/15


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