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【数理小説(12)】 「マドンナたちのアリバイ」

「ニュートン警察です。あなたのバイクが古典物理学の範疇を超えるスピード違反をしたので、切符を切らせていただきます」


 ファイバー高速道路の出口で、警察がネズミ捕りをしていた。呼び止められたのは、以前から暴走車としてマークされていたバイクである。あまりに速くてそのナンバープレートさえ確認されていない。運転手がヘルメットをはずすと、溢れるような長い髪がなびいた。警官は驚いた。


「女性だったのか」

「そういうあなたも婦人警官だったとはね」

 彼女は答えてから、不満そうに免許証を見せた。「あのう、私がスピード違反をしたと言いますが、その証拠は?レーダーか何かを使ったんですか?」

「いやいやレーダーだなんてとんでもない。今までどんな方法で測定しようとしても、スピード違反だと気づいたときには逃げられていたからね。苦労したわよ」

 波乃の質問に対し、警官はややもったいぶった言い方をした。

「だけどやっとここで捕まえた。ここでは、量子力学的なことはあまり重視されないからね。今日は古典物理の話をするよ」

 その通りである。この物語は一見量子力学の話かと期待させておいて、それほど血湧き肉踊り脳吹く話題ではない。ここも高速道路ではあっても光速道路ではない。実際、彼女も高速道路の入り口と出口付近では、目に留まるほどにスピードを落としている。

「なら判ると思いますが、私は非常にゆっくりと走っていましたよね。法定速度内で」


 警官は、来たな、と思った。元よりシラを切るだろうと想定していたのだ。だが、この運転手を捕まえるためのロジックはすでに用意してある。

「たしかにあなたは今減速していたけど、料金所が近づいてから徐々にスピードを落としていったんでしょ?」

「いえいえ、そんな「見て」きたようなことをおっしゃられても」

 そう言われて警官は運転手に「証拠」を突きつけることにした。

「高速道路入り口に入って今ここに着くまでの時間がわずか1秒。とんでもない速さね。しかもその時間のうちの大半は減速中に費やしたもので、それ以外の道のりにおける速度を計算すると、法定速度を超えたことになる」

 だが波乃は警官の話を聞いて反論した。

「そう言いますが、それってただの状況証拠でしょう。状況証拠だけで逮捕だなんてこと、ありえませんよ」

「いやいや。それ以外の速度で走っていたとしたら、あなたが今ここにいることを合理的に説明することはできないの」

「お巡りさん。スピード違反を捕まえるんですから、その違反した瞬間の証拠を出してくださいよ」波乃が睨むように言う。

「その必要はないの」警官も睨むように言った。「速度というものは、古典的には、距離÷時間 なの。それで充分。あなたのバイクの移動距離を、かかった時間で割る。そうすると、法定速度以上の速度が割り出された、それだけのこと」

「だから状況証拠だって言ったでしょ」波乃は強気だ。「違反して走っている最中に、『そこのバイク、止まりなさい』とかいうのが取り締まりでしょ」

「なにバカなことを言っているの。音より遥かに速かったくせに。とにかく、あなたの言い分はそれだけ?」

「はあ?『それだけ?』」彼女が叫んだ。警官を睨んでいる。「充分でしょ、それで」

「ようし、勝負はついた」

「なにが勝負はついたよ。偉そうに。私の勝ちよ。負け惜しみはよしてちょうだい」

 だが警官はいっこうにひるむ様子がなかった。

「逆なのよ、お嬢さん。あなたこそが、『スピード違反をしていない』ということを証明しなくちゃならないの、この状況においてはね」

「なにをバカな! そもそも速度というものは、位相の変化を時間で微分したもので……」

「法律にはそのように書かれてはいないの」

 警官はきっぱりと言った。波乃が言い返す。

「法律が速度という言葉を使っている以上、正しい速度の定義を使うべきでしょ」

「だから『平均の速度』それが秒速約三十万キロメートルだった。これで充分だし、反論のしようもないでしょう?」

「平均の速度? ハ! ナンセンス」波乃は声を荒げた。

「だからさ、速度でしょ。それには変わりないじゃない」警官が言う。

「平均の速度は速度じゃないの。法律には平均の速度、なんて一言も書かれていないでしょう!」波乃は引き下がらない。

「甘いわね」警官が言った。波乃は「あなたが解ってないのよ。この世の摂理、数理、物理をね」と言った。

「ああら、見くびられたものねえ。でも、我々にだって、微積分ぐらいは判るわ」警官が言った。

「距離 ÷ 時間 だなんて小学生レベルのお話をしている人が、なにを言うやら」波乃が言った。

 警官は、(よし来た)と思った。反論を続ける。

「あなたのバイクの速度が、実際に複雑に変化していたとしましょう。それはあなたが言った通り Δx/Δt 時刻tにおいて位相を微分すれば計算できる。だけど今、手元に、あなたがスピード違反をしていた時間のどの時刻の直接的な情報もない。そのことは認める」

「ほら見なさい。負けを認めたわね」波乃は腕を組んでふんぞり返った。

「だけど、入り口付近と出口付近での情報はある」警官が言った。

「それはさっきも聞いた」

「平均値の定理というのは、お嬢さんはご存じないかなあ?」警官は質問した。波乃が答える。

「知ってるに決まっているでしょ。それくらい……あ!」

「平均の速度が秒速約30万キロメートルということは、速度も秒速30万キロメートルであった瞬間がどこかにあったということ……だよね」

「いや、それは……」

「平均でそうだということは、実際にはそれ以上の速度があった可能性さえある」警官が波乃を追いつめて行った。

「秒速30万キロを超えるなんてことは、このバイクではできません」

 波乃が必死になって言うと、警官は「そこまでは出せるわけね」と顔を近づけて言った。「その場合、ずっと同じ速度であったということになる。おや?なら、平均の速度も速度も、結局同じということになるよねえ」

 波乃は警官の論の詰め方には舌を巻いた。「すいませ……」と警官に謝りかけた。そのとき波乃は悪あがきを思いついた。

「……私のバイクの速度ですが、微分不可能な関数だったんです」

「現実の世界では、微分不可能な関数なんてないよ」警官が言った。

「でも、量子力学的には、位相も時間も不連続なので、そもそも微分はできないわ」

「ふーん。先ほど速度は微分で定義できると言っていたのを翻すんだ?」警官は意地悪そうに波乃を弄び始めている。「法律に速度という言葉が使われている以上、そもそも速度は求めようがない、なんて言い方は成り立たないよ。裁判をしても、一般に理解されている範囲で、「速度」という言葉が解釈されるからね。本当を言うと、微分できない関数で走ったとしても、秒速三十万キロメートルで走ったのは自明だけれど」

「だから……あ、お巡りさんはそもそも私が入り口に1秒前にいたことをどうやって知ったの!」波乃がなにかを思いついたようであった。

「そんなのは訳ないでしょ。入り口に入ったのを確認した後、出口まで先回りして待っていたのよ」

「あら、なら私を追い抜いたの? 警察車両といえども、速度違反でしょ? それに追い抜かれた覚えもないけれど」

「ああ、あなたには追いつけないわ。だけどコースはカーブを描いているので、ショートカットはできる」

 警官はまだのんびり構えていた。

「それがなんだと言うの。しっかりと確認はしているの。嘘は言っていないからね」警官の顔に警戒の色が浮かび、言葉が慎重に選ばれる。波乃はすでに反論を整えていた。

「へえ、ショートカット。あれ? 途中に国境がありますよねえ」

 今度は波乃が意地悪そうになった。警官に畳みかける。

「国境を越えるのは正規の道路以外では許されていませんでしたよね。それって、警察といえども同じでしたよね」

「違法に国境を越えたなんて言っていないでしょ。証拠もないことを言わないで。ただ、ショートカットをして、先回りしたと言っただけよ」

「高速道路入り口からここに至るまでに、国境がある。道路は通っていない。そうなるとどう考えても違法に国境を横切ってきたことになる。その場合、手段が違法な捜査ということになるわねえ」

 だが警官は認めなかった。

「あなたはそう言うけど、それってただの状況証拠……うぅ」

「はあん、そういうことを言うんだ」

 立場が逆転した。

「あなたねえ。だけど国境を横切ったところを目撃されてはいないのだし……」だが、この言い訳が苦しいのは警官も判っている。

「あらまあ」波乃は笑っていた。「国境を横切らないなんてことはできないってのは、当然ですよねえ。勝負あったんじゃない?」

「いやあ……」警官がたじたじになりつつある。

「アリバイは?」

「アリバイって……」 

 波乃は攻撃の手を緩めなかった。「甘いんじゃなくて?」波乃が笑う。

「中間値の定理というのは、お巡りさんはご存じないのかな?」

「うぅ……」

「この星では赤道が国境となっっている現在、赤道から北緯10度にある入り口から南緯10度の位置にある出口まであなたたちは来た訳ですから、その中間地点である赤道の国境を通過する時刻tは存在しますよね」波乃は勝利を確信した。

「いや、それは……」

「一回以上の可能性さえある」

「そんな無駄な動きはしないわ」

「でも一回は越えたんですね、私を捕まえるために」

 そう言われて、警官は悔しそうな顔をした。この女を捕まえることはできないのか?

「……厳密な意味では国境は幅を持たない線であり、量子力学的には我々は不連続に移動している訳で……」

「あれえ?「法律で国境を横切る」って言う言葉を使うとき、量子力学的な不連続性なんて認めてもらえるのかしらねえ。どう考えても横切ったとみなされるんじゃなくて?」

「……」

 波乃はさらに思いついたことがあった。

「でも、その論理、認めてあげましょうか」

「え?」と警官が顔を上げた「どういうこと?」波乃に尋ねる。

「量子力学的なふるまいが認められると言うんだったら……」

 警官はいやな予感がした。

「私、実は途中で量子テレポーテーションしたんです!」

「え?量子テレポーテーション?」

「瞬間移動は速度違反じゃありませんよね」波乃はにっこりして言った。

「瞬間移動ならたしかに……」

「じゃ、そういうことで。ごめんあそばせ」

 警官は観念し、去って行く波乃のバイクを後ろから見た。

「だけど、量子テレポーテーションって、実体が移動するんじゃないから、本当にやったらオリジナルの波乃は死ぬことになるんじゃないの?」

 どうせ方便ではあろう。彼女は捕まえどころがないな、と思った。ちょうど空にかかっていた、七色の虹のように。


〈了〉

Ver1.1 2022.2.22

Ver 1.2 2022.5.26 少しだけ推敲。

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