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【講談(2)】 『牡丹燈籠 お札はがしーー解決編』

noteでお世話になっているさや香姐さんのこんな記事や

こんな記事を読むと

どうにも催促されているようで、書かなければならないことがある。


まず嗅覚ということでいうと、私も匂い・香りや嗅覚に関するものに取り憑かれていて(吟遊、取り憑かれているものが多い)、香道とか香水とかも大好きなのであった。


次に今日載せる根多でもあるが、三遊亭圓朝作『牡丹燈籠』である。私が追求した根多のひとつである。では枕替わりに語らせていただこう。


簡単なあらすじを述べると、、、覚えているかネ。えーっと、たしかうちの近くだ。

『お札はがし』
根津の清水谷に萩原新三郎という浪人がいた。友人の山本志丈という医者の手引きで、旗本の飯島様のお宅にお邪魔する。そこで出会った飯島家の娘、お露と新三郎が互いに一目惚れ。だが面倒を嫌った志丈は、その後新三郎とお露を合わせない。やがてお露が焦がれ死に、看病疲れでその女中のお米も死んだという噂を新三郎は聞く。意気消沈していると、夜、カランコロンという下駄の音をさせ、女中と共にお露が現れる。以後、夜毎逢瀬が重ねられるが、叔父の易者、白翁堂勇斉から「お露は幽霊でこのままだとお前は死ぬ」と説得される。寺から渡された海音如来の黄金像を身につけ、お札を家中の出入り口に貼る。新三郎の家に入れなくなったお露とお米の幽霊は、隣に住む奉公人の伴蔵に、新三郎の家の中に入れるようにしてくれと頼む。伴蔵は妻のお峯の入れ知恵により、百両くれれば主人を裏切ると幽霊に言い、交渉が成立する。伴蔵はなんとか新三郎をだまし、海音如来の像を偽物とすりかえ、こっそりお札を一枚はがす。新三郎宅に入ることができたお露は、新三郎を恨み、殺す。翌朝、新三郎の死体と、その横に白骨が発見される。

カランコロンという下駄の音や提灯の光の演出効果もあり、美しく悲しい恋物語としてすんなり聞いてしまうが、よくよく考えるとお露は身勝手だ。

一龍斎貞水先生も同じことを思ったようで、東海道四谷怪談のように、苦しめられた者がその恨みのために化けて出るという正当な幽霊モノは納得できても、不条理な牡丹燈籠はお嫌いだそうだ(それでも演ってはいるらしい)。


圓朝によって演じられた当時はテレビではなく、寄席が物語を楽しむ場所であった。『牡丹灯籠』は連続ドラマのように、毎夜続きが語られるという形式で語られた。文章で読むとさほど怖く思われない話ではあるが、圓朝師匠の語りを聞いた人は「そうとう怖かった」と言う。


『牡丹燈籠』は多くの落語家を惹きつける作品のようで、私がとりあえず思いつくところでも、立川志の輔師匠、快楽亭ブラック師匠が長編のほうを回を分けて演っていた。また、二夜に渡り二つの視点から独自の解釈で描いた立川談笑作の『牡丹燈籠』は秀作であり、私に多大なるイマジネーションを与えた。あれはもう聞けない幻の作品なのであろうか。


ブラック師匠も言っていたが、牡丹燈籠の話は、幽霊の話なのか?それともあれは人怖の話だけなのか?というのが謎である。

おそらく答えはその真ん中あたりにあるのだろう。というのは、圓朝師匠のもう一つの怪談大作『真景累ヶ淵』の『真景』とは地名に見せかけて、実は「神経」のことだからだ。

ランプが電気に代わり、夜も明るくなっていく。さらに精神医学なるものが西洋から入ってきている。これからの世に、幽霊は見えなくなる、ということを見越していたのである。だから圓朝師匠は、そのどちらとも取れる作品を作り、幽霊話の最後の世代としての意地のようなものを見せたのだと思われるのである。


が、私は「完全人怖」派、すなわち、幽霊のような超常現象は一切なしとして解釈するほうがかえって怖くて好きである。『エクソシスト』なんかも、あれは悪魔が実在したと考えず、脳炎の話だと思っている。


では私なりのお札はがしの続編をご覧いただこう。このネタは、さる幽霊画をお持ちのお宅に招かれて演ったことがある。貴重な絵を観ることができた大変に良い機会であった。


『お札はがしーー解決編』

(お札はがしの後に演じる)

さて、ここ迄が「お札はがし」でございますが、牡丹燈籠という作品はこれより前にも後にも大変に長い、何と十三日もかかって演じるものなんです。これよりは精神科医の解釈による、ミステリーでいう処の真相解明編、いわばスピンオフ作品でございます。


その後伴蔵・お峯の夫婦は「幽霊が出る」だの「見ると呪い殺される」だのと云って近所の者を怖がらせ、皆が引っ越したの好い潮にして自分達も遠くへ引っ越す。手に入れた百両を元手に荒物屋を始めるが、これが繁盛する。ところが伴蔵が脇の女にかかりあい、お峯が悋気起こして夫婦ゲンカ。その際お峯が「あんたが新三郎を殺した」と以前の悪事を怒鳴り立てた物だから、伴蔵はお峯を殺してしまう。店をたたんで根津に戻って畑に埋めておいた海音如来のお守りを掘り出した処で、待ち構えていた捕方に御用と相成ります。


伴蔵を縄打って引き立てた、依田豊前守の組下にて、石子伴作、金谷藤太郎という二人の御用聞が話している場面でございます。

「旧悪のあるお尋者に縄を掛けること相成って、待ち受けていた甲斐がありましたな。石子殿の読みは大当たりでございました」

「大盗賊にして主殺しの重罪な奴だ。吟味の末、相当のお裁きが下ることは間違いあるまい」

「それにしても気味の悪い話でしたな。これ(幽霊の手)が絡んでいるという……」

「まさか金谷殿は幽霊の仕業などと思っておるまいな」

「え、いや、お露の幽霊が夜な夜な萩原新三郎の家を訪ねたが、情ある故恨み殺し切れず、しびれを切らした伴蔵が自ら主の新三に手をかけて、金子を奪ったという噂ですが」

「おいおい、俺はこの稼業をやってつくづく思うが、幽霊なんて物はないね。萩原新三郎、実は気が触れていたらしい。夜毎壁に向かって独言を吐いていた様だ。それに目を付けた奉公人の伴蔵が新三に、話をしている相手は幽霊だと信じ込ませたんだよ」

「ですがカラコロと駒下駄の音が……」

「おぬしが聞いたのか?夫婦のした、下駄をはいた幽霊の話を聞いた人が尾に尾をつけて、『そういやあ俺も昨夜聞いた」なんて奴が現れる様に成ったんだよ」

「そうでしたか。恨みではなく恋しくて現れる幽霊などとは、艶っぽくて好いと思ったのですが、確かにそんな幽霊は聞いたことがありませぬものなあ」

「萩原新三郎というのは、まず人に恨まれる様な男ではなかったらしいよ」

「では伴蔵が捕らえられ、新三郎もお露もあの世で仲良くなっていることでしょうなあ」

「それもないな」

「石子殿、あの世までないとおっしゃるか」

「そうは云わん。こう見えても母上の墓参りは欠かしたことがない。だがな、新三郎とお露があの世で一緒ということはない」

「と云いますと?」

「新三郎とお露は、会ったこともないよ」

「……」

「新三の独言を幽霊の話に仕立て上げる為には手頃な仏さんがなくてはならん。そこで伴蔵は知己の山本志丈という医者ーー医者と云っても薬一つ持ち歩かない、芸事の方が得意と云うお幇間医者だがな。どっかにいるな、そういうのーーこいつに、丁度飯島様の娘と女中が流行り病で亡くなったと教えて貰った。それでそのお露が幽霊ってことにされたのだ」

「そんな……」

「それとな、幽霊話の発端は、金目当てではなかったらしい」

「え」

「伴蔵が脇の女とむつまじく話しているのをお峯に聞かれた。伴蔵はそれで『幽霊と話していた』と法螺を吹いて無理矢理乗り切ったと云うんだよ。後は話の辻褄を合わせる為に工作をした。金子百両はそのついでだ」

「そんな、女が居るのを隠す為だけに、恩ある主人を殺めたというのでござるか」

「罪人には嘘を吐くのが平気、嘘に嘘を重ねるという者が好く居る。伴蔵はそういう奴であったのだ」

「捕らえられて好かったですな。とにかく幽霊話ではないと判って、気が安まりました」

「左様か。俺は余程人の方が怖ろしいと思ったがのう」

「確かに」

「考えてもみろ。己の法螺話の辻褄を合わせる為に、気の触れた主人に幽霊の話を毎日の様に云って信じ込ませ、幾多のお札を家中に貼らせ、挙げ句の果てに、見ず知らずのお露の墓を夜中にあばき、骸骨を主人の家にばらまいて主人を蹴り殺すなどとは、およそ人のすることではない。鬼のする所業。されど、鬼に成れるのはやはり人だけだ」

「(鐘に耳を傾け)鳴りましたな」

「寛永寺だな」

「もう行きましょうか」

「うむ」

「それにしても石子殿」

「ん」

「よく気付かれた。お手柄でござった」

「ナニ、ハナから怪しいと思った」

「ほう」

「これ見よがしにお札が貼られたり、幽霊がわざわざ足音を立てて家まで歩いてきたり、ここに幽霊が居ますよ、と皆に判って欲しい者が仕組んだことに相違ないと思ったのだ。そうして調べる内、伴蔵が墓をあばくのを見たという証人を見つけたという訳だ」

「流石。足の無い幽霊の足を作ったばっかりに、足が付いてしまったという訳ですなあ」


牡丹燈籠スピンオフ作品、お札はがし解決編の一席、これを持ちまして読み終わりと致します。皆様どうぞ、気を付けてお帰り下さい。


Ver 1.0 2020/8/14

さて私は、ひとつの話を突き詰めるときは、そのルーツをたどる(はじまりのはじまりは師匠から渡された、先代神田山陽師匠が大量に作った三分講談の『お札はがし』であった)。牡丹燈籠の核は『お札はがし』のところであり、そのルーツは中国の『剪燈新話』の中の『牡丹燈記』である。
(ちなみに上田秋成の雨月物語にある『吉備津の罐』も『牡丹燈記』にヒントを得ているらしいが、圓朝師匠の『牡丹灯籠』とは異なり、主人公が恨まれるのももっとも、という話になっている)
『牡丹燈記』では、鬼(幽霊のこと)から逃れた主人公が、うっかり訪れてはいけないところを訪れて死ぬ。主人公にも落ち度アリ、の幽霊話ルールはここでは守られている。

わたしはもうひとつのルーツを挙げる。それは、『牡丹燈記』そのものに影響を与えたはずだ、という独断によるものである。
それは返魂香(今は反魂香と書かれることが多い。落語や歌舞伎などもそう)の話である。お香はお香でも、それを炊くと死者に会えてしまうという香である。(お香好きとしてはぜひ嗅いでみたいものだ)
この中国に伝わる返魂香をもっとも有名にしたのは白居易の『李夫人詩』である。
(ちなみに返魂香は武帝とは関係があるが、李夫人とは本来関係がないらしい)

今はなき愛する者にもう一度会う、というホラーのテーマは繰り返し扱われてきた(『死国』『ペット・セメタリー』等)。そもそもが人間の悲しい執着からなされる忌まわしい行為である以上、たいてい悲劇に終わる。
その元祖が、返魂香の物語である。

『牡丹燈籠』、そのオリジナルの『牡丹燈記』も、亡き者に会いたくて会えてしまう物語だ。だから意図的ではなかったにせよ、この返魂香というモチーフは完全には無視され得なかっただろう。むしろ積極的に取り込んだ可能性も高いと思われるのである。

だからやはり『牡丹燈籠』の源流には『李夫人詩』があると言ってよいのではないだろうか。

反魂香が登場する落語には、『高尾』『反魂香』があるが、二つは基本的には同じ滑稽噺である。返魂香の物語を本当に踏まえている落語は『たちぎれ』(『たちぎれ線香』とも)である。反魂香そのものは出てこないが、話の構造が見事にそれを踏まえていて、サゲもうまいこと重なる。煙のように余韻の残る味わい深い根多である。


実は私も、反魂香に挑戦している。

よろしければこちらのほうでどうぞ。


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