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【旅行記(3)】 『磯部温泉』

 次の日が休みなので、夕暮れ時から磯部に向かった。

 適当な時刻にふらりと新幹線に乗れば、東京から一時間程度で磯部温泉には行ける。
 高崎で新幹線を降り、地元民に混じって在来線に乗る。磯部駅で降りると、皆改札をスイスイとプリペイドカードで抜ける中、よそ者の私だけ、職員に手渡しという昔ながらの改札のくぐりかたとなる。のどかな街への入国手続きは、のどかな人の手を煩わせてその恩恵に与ることである。
 駅舎を出てもさほどの明かりはなく、静かだ。古い商店に囲まれ通りを行く。虫が鳴き、川の流れる音が重なる。旅館の入り口は、その川にかかる小さな橋を渡る手前に現れた。

 旅館の玄関を入ると、光景は一転した。明るくにぎやかなのである。舌切り雀の雀とおじいさんの大きな像が、笑顔で出迎えた。大きな絵が壁にふんだんに飾られている。照明は花を模しているのだろう。凝った作りである。客の姿も多い。
 部屋まで案内される間、館の広さに驚く。石畳の広い中庭には、高く竹までもが茂っている。古くから伝わるつづらや和ばさみなどがショーウィンドウに陳列されたブースもある。近くの有名な橋を模した橋がかけられていたり、壁に滝が流れていたり――いや、大きさだけで言えばこういう規模の旅館は珍しくはないが、そこまでの道のりが道のりだけに、ギャップに驚くのである。正直、地味なところにやってきたものだな、と、旅館に入る直前までは思っていた。

 仲居さんが部屋に挨拶にきた。小柄な若い女性で、下の名前だけを名乗った。クラブみたいだな、と思った。いや、それはさておき……
 食事、食事である。所用を終えてから来たので遅くなった。早速夕食会場に向かう。
 食事のお世話をしてくれ、料理の説明をしてくれるのも、部屋の担当の仲居さんであった。料理が冷めないようにのせられた紙には、舌切り雀の話が書かれていた。舌切り雀は磯部に残る伝説である。それもまさにこの旅館の庭のあたりがゆかりの地だと言う。作家の巌谷小波がこの旅館に泊ったまった際、そのお墨付きを与えたともいう。

 老夫婦のもとに暮らす雀が、腹をすかせて洗濯のりを食べてしまった。お婆さんは怒って雀の舌をはさみで切り、雀は逃げ出してしまう。お爺さんは雀を探しに出かけ、山中をさまよった末、雀の里に辿り着く。たいそうなもてなしを受けた後、帰りがけにお土産をもらえることになる。大きなつづらと小さなつづらを選ばされ、お爺さんは小さいつづらを選んだ。家に戻ってつづらを開けると、中にはお宝が入っていた。お婆さんも、宝物欲しさに雀の里に行く。そこで大きなつづらだけをもらってすぐに里を出る。帰る途中つづらを開けると、中からたくさんのお化けが出てきた、という――

 次々と運ばれてくる油断できぬ量の食事を終え、満腹、満足と、腹の上に足まで満ちて食事会場を出た。

 ホールに舞台があった。ロボットのショーがあるという。宿泊客の足を確実に止め、席が次々と埋まる。私も席に座り、そのショーを待つことにした。
 雀とおじいさんのロボットが、舌切り雀の物語を語る。細かいところまで徹底して作りこまれ、一挙手一投足はあまりに優れていた。さらに後半、舞台奥に流れる映像は、おじいさんが磯部の観光名所を歩いて雀の里にたどりつき、土産物の入ったつづらをもらう、というよくできたコマーシャルになっており、それが笑いを誘い、観る物を飽きさせない。

 土産物売り場はその隣であった。ショーが終わって立ち上がると、そのまま買い物をしたくなるよう、憎らしいほどうまくできているのだ。それでも満足する。よく見ると、絨毯の模様も雀だし、浴衣にも雀の模様が隠されている。ここまで凝っていたか!と思ってはたと気がついた。機械仕掛けのショーとキャラクター。あの浦安などというところにあるネズミがテーマの夢の国と同じだ。かの国では恥と外聞を捨てネズミの耳を頭につけるのは個人の自由意思に任されていたが、この地では知らずして雀の柄の着物を羽織らされていたのである。恐るべし。おや?してみるとこの土産物売り場も、「よい旅を!」と見送るふりをしながら、絶妙な場所で待ち構えるかの土産物屋と同じだ。やられた!
 いや、べつに勝ち負けではない。商売がけしからんわけもなく、人をここまで満足させるとはまことにけっこうな話である。こちらだって虚構とわかって夢心地の中に飛び込むのだ。「巌谷小波も認めた舌切り雀ゆかりの地」なんていうのも、虚構を演出する仕掛けのひとつに過ぎないだろう。現実を忘れるためには、仕掛けは徹底しているほうがよい。

 物語では正直者が報われ、意地悪な者は罰せられる。だが我々は「そんなのはおとぎ話だ」などと言い、それを嘘だとみなす。
 だが心理学では物語を深読みし、別の真実を見出す。両極にある登場人物は、同じ一人の中の要素だと考える解釈があるのである。
 雀の里は、束の間の憩いを楽しむ非日常だ。つづらは、その喜びとでも言うものだろう。だが欲をかくと、「いま、ここ」を充分楽しみもせず、「足りない」「もっと」と利を求め、むしろそれにしばられる。それは実は苦しいことだ。大きなつづらに入っていたお化けは、手痛いしっぺ返しではなく、なにをも楽んでいない状態ということではないだろうか。
 山の中にある雀の里とは、まさにこの旅館のことであった。こういうところは、ふだん一生懸命に働く者がたまに来て、節度をもって楽しむのがいちばんよい。

 してみるとあの仲居さんは、雀であったか。あ、いや、邪な思いなど無論ない。なんせ彼女から見れば私など、お爺さんのようなものなのだから。

〈了〉

Ver.1.0 2020/6/30



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