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福祉と援助の備忘録(5)『誰が為に原則はあり』


(写真は、我が店の玄関に待機しているGUILTYちゃん)

福祉と援助の備忘録の5回目は、事例を考える上で踏まえておきたいことについて。


福祉職が人を援助する上で基本的な見立てと介入をどうしていけばいいかということについて、しっかりと書かれた総論が少ないように思われる。無論、なにがしかのことが書かれた書物はある。だが目を通すに値する確立された方法論が述べられたものは、ごく一部だけだ。


事例検討の方法に、役立つ方法論が垣間見えることがある。今は亡き野中猛先生の事例検討の方式は有名なものの一つだ。今では「野中方式」などとそのやり方が広まっているが、先生が生きている頃はそんな言葉なく、ただすぐれたケアマネジメント法があるということで定評があった。

他にも多くの事例検討のメソッドがある。だが、事例検討会は集団でするものだ。援助職個人のためのものではない。


方法論がないと、人は自分の枠組みで物事を考える。ことによっては良い方法論にめぐり合い学んでなお、やはり自分の枠組みで考える。そういうわけで方法論は役に立たないのかもしれない。逆に、はやりの、あるいは自分が運命的な出会い方をした方法論に飛びつき、なんでもその方法論のフレームだけで考えてしまう人というのもいる。


支援を行う上での中心的な考え方が、上司・同僚・施設から直接・間接に送られ続けるメッセージによって育まれることもある。これは大きい。たとえば生活保護の担当であれば


「さっさと働かせろ」


のメッセージはつきつけられる。まあ他者からの圧力の話はとりあえず良い。ここでもっと問題にしたいのは、この手の原則を福祉担当者が信じ込んでしまっていることである。すると利用者本位ではなく、原則本位になってしまう。

今はとりあえず、「ルールを曲げてでも人を支援する」ということについてまでは言及しない。福祉の現場で、自分たちの手数にある支援のやり方のうちの、どれを使うか、使わないかを決める際の原則の話である。



当人に役に立つ支援としてもっともわかりやすいものは、当人が喜ぶものであろう。「なにを当たり前な」と思われるだろうか?いやいや支援の中には、ユーザー視点を欠いた余計なお節介が多い。


例えば当事者が「障がいを受け容れる」ようにすることを当然のごとくに思う福祉職・医療職がいる。告知ありきの「障害受容」というヤツである。こういった原則を誰にも同じように勧めることは、ときに薬より遥かに深刻な副作用をもたらす(障害の慢性化、関係性の悪化、自殺等)。


「障害は恥ずかしいことではない。だから受容することでその先のステップに進めるのだ」は理屈である。だが、「だから適用しよう、さあみんなにやろう」は専門職としてあまりに素朴すぎだ。タチの悪いのは、それをしたせいで大きく失敗してもなお自分たちの支援に間違いがあると思わず、そのやり方を疑わない場合である。

そもそもついひと昔前までは、精神病者には「告知しない」が原則であった。今ではそれが見事にひっくり返っている。このシフトに私は、戦時中と戦後の教育の変化を連想する。「日本は神の国」と教育していた一方で、敗戦すると途端にその教科書を児童たちに墨で塗りつぶさせた。極端から極端に走っている。


「あたしは病気じゃありません」

「DARCは宗教みたいだから行きたくありません」

「(DV夫とは)離婚までは考えていません」


援助職のアセスメントはたいてい、こういう当事者の発言を「問題」視する。それは援助職が「障害受容」だの「自助グループによる繋がり」だの「DV加害者からの避難」だのが、「回復に至る過程に必要不可欠」だという勝手な神話を信じているからだ。そこに外れた主張をする者は、当事者であれ支援者であれ支援の敵である。負の感情が湧く。


賢い利用者は支援者の言うことをきかない。本能的にその支援の危険性を知っている。そういう利用者は支援を拒む限り、なにも支援されない状態にとどまるだけで済む。困るのは、支援者の働きかけによって事態が悪化する当事者である。


支援者は早々に「提案」をする。それは利点「も」あるものである。だが「栄養があるから魚・野菜定食を注文しろ」と命令する定食屋はかなり押しつけがましい。客にはせいぜい「オススメ」するのが限度であり、傷ついている者にはそれさえも危険だ。なにげないオススメのせいでかえって悪い方に行ったり、籠もられて事態が長く停滞したりする。


ただ試行錯誤は必要である。「障害受容」を良しとする文化が生まれたのには、病名告知が禁忌とされた時代に病名告知をしないで悪くなったケースを見、病名告知を試してうまくいった人がいた、という背景があるのである。何が相手にとって本当に良いことか、悪いことか、深く検討した末の決断があったことであろう。ときには失敗もあったと思われる。



ナチス政権下の医者は、本気で「本人のため」に知的障害者を殺した。繰り返すが本当に「相手のため」と信じたのである。「一生懸命な援助者をナチスの医者と一緒にするのか!」と言われても構造は同じである。ナチスの医者も一生懸命であったのだ。私も含め、肝に命じるべき過去の教訓がある以上、私はむしろこの例えを出すほうが適切だと思う。

“Nothing about us without us”(私たち抜きに私たちのことを決めるな)

この、おそらくすべての人への施策の基本中の基本は、熱心な支援者にさえほぼ守られていない。当事者の表向きの主張だけからすべての支援を決めるものではないかもしれないが、支援のことを真剣に考えるなら、せめて当事者の声を聴いて支援方法の是非を問いつづけるのが道理だ。


「患者のことは患者に聴け」

事例検討会に、当人を呼べばいいのに。


Ver 1.0 2021/7/16



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