学習理論備忘録(47) 『狂言「猫と月」「鎌腹」を鑑賞して思ったこと』
狂言を見たので、そこから学習理論備忘録を書く。
人というのは今も昔も変わらないな、という感想である。
『猫と月』という狂言は、イェイツが原作である。なんと中身は行動療法であった!
乞食たちが聖人に、障害を直すか祝福を受けるか、どちらかを叶えてやると言われる。
見えない目を見えるようにと願った男は、目が見えるようになると自分の道案内をしてきた足の悪い乞食を見て、「お前は自分の服をだまし取ったな」と憤慨する。彼を殴ったのち、そこを去ってしまう。
いっぽうその足の悪い男は、祝福を選んだ。すると聖人に、歩くことを要求され、しまいには踊ることまで求められる。すると自力で歩けるようになってしまうのだ。祝福を受けたので、聖人たちのリストにも名前入りすることになる。めでたしめでたし
なにかをする能力がないとされたものが、なんとかできるようになってしまう、という話は昔からある。歩けないものが歩けるようになる代表選手はクララだ。
歩かない →「自分は歩けない」と信じる(他人からもそう思われる) → ますます歩かない → ますます歩けなくなる
という悪循環は行動療法の世界ではよく目にする現象である。
たしかに、本当に歩けなくて、歩くことに変にこだわりすぎるということが問題になることもある。ただ、歩けるものが歩けなくなっているというのもかなりの問題であろう。
歩くことで「歩く → 歩けるようになる」の好循環を作り出すことができる。痛みによって運動を控えるとか、怖いから外出を控えるといったことについても同様に、「まず行動してみる」というところから治すことができる。多くのことは、行動しないことが問題なのだ。
さて次は『鎌腹』だ。
こちらは古典で、まあ笑える。昔から、「死ぬ死ぬ」と騒ぐ人はいたようだ。少しも現代の病などではない。
妻が、働かない夫に向かって「あんたを殺してあたしも死ぬ!」と騒ぐところから話が始まる。
仲裁が入り、男はなんとか山に仕事に行くことにしたのだが、妻が怖いのでいっそ死のうと考える。あの手この手で死のうとしてみるのだが、怖くてなかなかうまくいかない。
そこに妻が現れて自殺を止める。話をするうちに、いっしょに死のうという流れになる。すると男は、「じゃあお前から先に死んでくれ」と言い、また妻に殺されそうになるのだ。
落語にもありそうな話だ。『喧嘩長屋』の夫婦も似たようなやりとりをする。
夫婦喧嘩は犬も食わないというが、「死ぬ死ぬ」詐欺も食ってはいけない。「死ぬ」と言うのに注目することで、ますます「死ぬ」と言うようになってしまう例は枚挙にいとまがない。
ところが「死にたいんです」と相談する人については、軽々しく扱うと本当に死なれるかもしれない。「死んでやる」と「死にたいんです」の違い。絶妙である。
夫は働こうとはしている。「山に行く → ご褒美が与えられる → もっと行くようになる」の好循環を作り出せるとよいが、あの妻は、夫が山に行ったぐらいでは褒めないだろう。「あんたを殺して私も死ぬ」→「わかった、働くから」→「とっとと行きな」→「やっぱ働かない」→ 最初に戻る これはひとつの調和である。これが永遠に続くことが問題視されているのだ。
ところで心の病というか人の問題行動は、かつては精神分析というツールで語られてきた。今ではそれがすっかり古くなって、YouTubeなどを見ても社会心理学的な切り口ばかりが多いようだ。そちらは新しい話が更新されていっているので結構だとは思う。
社会心理学は知識を更新しても、その内容が相変わらず平易なままなので、話題にしやすいのではないだろうか。ただ平易なのは悪いことではないが、内容が浅いものが多いように思う。
上記のように物語を考察するにも、精神分析を用いて「歩けない理由は・・」「死にたい思いの根底には・・・」とやると、問題を先送りするだけである。おそらくそれはありもしない仮説である。
社会心理学では様々な現象に名前を付けたりするが、それは単に言い換えただけである。あるいは数量でもって、「こんなとき人はこんなことをしがち」ということをざっくり示すだけである。
行動分析は古くからある(更新はされていないわけではないが最新を求めるとマニアックな話になる)学問である。古い知見が役に立たないというのではなく、心理学の基本中の基本であり、ずっと確実に役に立ちつづけている。
行動分析の切り口で、さまざまな現象を少ない原理から単純に説明するものがもっと増えるとよいのにな、と思う次第である。
Ver 1.0 2022/12/22
学習理論備忘録(46)はこちら。
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