2020年9月02日の近況報告 なぜ表現の規制をしてはならないのか?
タイトルにもあるように「なぜ表現の規制をしてはならないのか?」という問いには、まず「大前提」として表現の規制は行われてはいけない。と言っておこう。
何故なら表現の自由というのは「言論の多様性」を維持するのに必要なコストだからだ。
表現や思想というのは「過去の人の考えを後世に伝える物」で、見聞(「けんぶん」と読む。意味は各自検索してね)を広める効果があるのだ。
表現の自由が保たれているからこそ多様な意見を集めることが出来、健全な団体が持っている多様性、すなわち「多角的な視点」を確保できるからだ。
だから政治団体であれ人権団体であれ、まともな団体というのは表現を推奨こそすれ規制はしない。
たとえそれが「13歳の少女をレイプして殺して死体を焼く悪人が出てくるマンガ」でも「ストレスがたまったらペットの猫を蹴っ飛ばす悪党が出てくるアニメ」でも
あいちトリエンナーレにあった表現の不自由展のように天皇陛下の写真を焼いても、現実世界において何かしらの悪影響が出ない段階であれば規制はしてはいけない。
それが「表現の自由」だ。
写真を焼きたければ気が済むまでいくらでも焼くがいい。その自由は法の下認められている。
「猫を蹴っ飛ばすなんて!」と思うかもしれないがそれなら見なければいい。嫌なら見るな、であって見ない自由もあるし見ることを強制する事はしない。
「猫を蹴っ飛ばすアニメを見て真似したくなった」という人が出てこない限りは表現の自由の範囲内だ。
他のケースでは黒人が射殺されたのを契機に始まったデモも、「デモをする自由」は少なくとも日本国内ならある。こちらも気が済むまで好きなだけやればいい。
だが暴動を起こして店や人を襲うのは「暴行障害」という「犯罪」であるため、そこの区別は明確に線引きすべきである。「表現」と「暴力」は別の話だ。
逆にその表現の自由を規制するというのは、その団体は支持者を操り人形にしたいという危険な思想を持っていることに他ならない。
相手を操るには余計な情報を全てシャットアウトしたほうが効率がいいからだ。だから表現を規制する側になる。
なので現在のフェミニズムやリベラルは自分たちの理想である思想統制社会の樹立を目指す組織だと思われても仕方のない事をしている。
ゆえにこれらの組織は解体されるべきだとさえ思う。
中国大陸では王朝が変わるたびに前王朝の偉業を全部破壊して何があったのかを後世に伝えられない。という事があったがそれを笑えないのが表現規制である。
とはいえ「表現の自由」と「カネを出す出さない」というのは全く別の問題であって両立はする。
さっきも出てきた「表現の不自由展」も、表現規制ではなくあくまで「スポンサー(このケースでは国)を怒らせた」からカネを出さない事にしたのであって、
「表現」と「スポンサーとしてカネを出すか出さないか」は完全に別の問題であり共存しうることだ。
以前「ミヤネ屋」というTV番組がスポンサーである高須クリニックを怒らせて、番組内で謝罪するにまで至ったのと全く変わらない。
写真を焼きたければ写真を焼きたい人だけで集まって、カネを出しあって満足するまで好きなだけ焼けばいいだけの話だし、
それをやる自由は少なくとも日本国内では法の下で認められている。これも表現の自由だ。
同様にさっきも述べた「13歳の少女をレイプして殺して死体を焼く悪人が出てくるマンガ」でも「ストレスがたまったらペットの猫を蹴っ飛ばす悪党が出てくるアニメ」でも
それを世に出す自由は認められているし、認めなくてはいけない。それが表現の自由だ。ただ、それがウケてカネを出す奴がいて商売として成立するかどうかは別として、だ。
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