見出し画像

【長編小説】 ヒジュラ -邂逅の街- 4

 その女性は他所者よそもので、身寄りもなく何年か前に北のほうから独りでこの街に流れてきたという。他所からやってくる者には警戒心が強く、元々閉鎖的でもあるこの街の住民は、彼女の処遇に関して悩んだ。そもそも女が独りで何処からともなく入り込んでくるなどということは、この街の歴史始まって以来初めてのことだったのだ。
 女はよほど遠い北の土地から来たようで、初めはなまりがひどくて街の住人との意思疎通に苦労するほどだったという。それが何とかなるようになったころ、市長に会うことを許された。彼女は自分の身の上を包み隠さず話し、この街に住まわせてくれるよう懇願したそうだ。長老たちが集まり、何度も会合が開かれた。長い時間をかけて話し合いが持たれたが、なかなか結論は出なかった。
 古くからのしきたりによると、この街は、助けを求めて来る者がいればそれが誰であろうとまず優先的に“保護”することになっていた。そこが、他所からたった独りでやって来た得体の知れない女を受け入れることに抵抗を感じる反対派の人たちと、受け入れてもよいのではと考える穏健派の人たちの論争の焦点になっていた。ところが、この女には不利になる点があった。それは、彼女が市長に対して自らの身の上話をしたとき、彼女がある“罪”を犯したことを告白したという事実があることだった。これを立ち聞きした者がいて外部に漏らしたため、瞬く間に噂は広がった。
 議論においては穏健派の立場を取っていた市長は、彼女を“保護”する意図に重きを置いてその罪を公表しなかったので、住人たちの想像と憶測は否が応にも膨らんだ。真実を知らされないがゆえの反動で、彼女についての悪意に満ちた噂が街じゅうのどこそこで囁かれるようになった。人間の想像力とはすごいもので、父親を殺したとか、妻子ある男を誘惑したとか、違法な薬物を取り扱っているとか、あげくの果ては、魔女なのではないかなどという話まで飛び出して、もうむしろ、通常の犯罪者としてよりも悪いイメージを植え付けられるに至ってしまったのだった。
 しかし、これが妙なところで、ここまでになってくると、会合で論争を繰り広げていた反対派のなかに、彼女に慈悲を垂れる者が出始めた。住人たちの“口”撃によって過剰に虐げられるようになった彼女を、いまこそ我々街の有力者たちで保護してやるべきではないかと、長老のひとりが言った。すると、このところ連日連夜続いている議論に疲れの色を見せていたほかの長老たちが、ぽつぽつと賛成の意を示し始めた。日増しにひどくなる住人たちの噂話の悪辣あくらつぶりを実際は憂えていた他の反対派の人々も、明らかに論調を和らげた。そしてここで穏健派がダメ押しをするように、彼らの伝統に則って、この女性を受け入れ保護することの利益と重要性を説いた。この場で穏健派が反対派を押し切る形で、会合はとうとう決着を見たのだった。
 反対派のなかには、まだ頑固に反論する人たちもいたので、交渉の結果、女性のこの街での生活に制限をかけることで、何とか彼らを納得させることができた。
 そして、そうするうちに、ついに市長は彼女の処遇に対する正式な決定を下した。ある幾つかの条件のもとに、彼女のこの街への居住を許可するというものであった。彼女は日干し煉瓦工場でお茶汲みの仕事に就き、それ以外の仕事をしてはならない。市中の決められた場所に住み、昼の間は自由に外出してはならない、等々……。
 街の住民と口をきいてはならないという条件は課せられなかったが、男も女も彼女に自分から話しかけようとする者は誰もいなかった。ただ、“保護する”という名目である以上、彼女に対して虐待や嫌がらせを行うことは厳しく禁じられた。子供たちが彼女に悪戯をしないようコントロールすることが、親たちには義務づけられた。
 ともあれ、こういったいきさつで、その女は日干し煉瓦職人たちのお茶係となった。広場の近くに用意された部屋に住み、毎朝そこから煉瓦の製作所まで歩いてやってきた。街の人々は、一連の騒ぎが落ち着いたあと、その最中ほど彼女を忌み嫌うことはなくなったけれど、いったん共同体に流布して染みついた共通認識は拭い去り難く、元々彼女を悪く思っていたわけではなかった心優しい人たちまでもが、言わば腫れ物に触るような感じで一定の距離を置いていた。
「……大変な目に遭ったんですね、その人……」
 私は目を丸くして呟いた。気づけば三杯目のお茶をおかわりしていた。
「そしていまに至る、ってわけだ」
 自分のカップにもお茶を注ぎながら女将が言った。
 それでも外国から来る観光客を長年受け入れてきた女将は広い視野を持っていて、この街の大半の住人に比べればより冷静に彼女のことを見守っているという。
「何をしたのかはいまもってわからないんだけど」
 女将は遠くを見るような目で言った、
「この街に馴染まない人だよ。なるべく問題を起こさないように、身を隠すように暮らしてる」
 そんな風に街の人々から疎外され、自らも人目を避けるようにして暮らしているその人に接触を持つことについて、女将は少し不安に感じているのだった。
 でも、あのとき彼女が助けてくれなかったら、私は実際どうなっていたかわからない。いずれにせよこのまま何もしないで過ごしていては筋が通らない、と女将も考えていて、そこがちょっとしたジレンマだった。
 煉瓦職人の男性が、二人がかりで伸びた私の体を五階の部屋まで運び上げてくれたと聞いた。そんな労苦をかけたとあっては、是非とも彼らにもお礼を言いに行かなければならないだろう。
「これから訪ねてきます」
 私は言って、立ち上がった。
「それなら、これを持ってお行き」
 女将は人差し指を立てると、ゆっくりと立ち上がって階下の倉庫に降りていった。そして、籠いっぱいの新鮮な果物を持って戻ってきた。なあに、お客さんに出す分をいつも大量に仕入れるからね、余ってるんだよ。
 ――この女性にも、私は誠心誠意を込めて恩返ししなければならない。
  そう思った。

 日干し煉瓦づくりの作業場は、その日も熱気に満ちていた。
 日干し煉瓦を作る工程は、単純そのものだ。
 まず、作業場の脇にある井戸から汲んできた水で、泥をねる。場合によっては藁を混ぜ込むこともあるが、とにかくくわを使ってよく馴染むように捏ねる。そしてそれを中央の乾燥場へ運んで、地面に置いた木枠のなかに詰め込む。次いでその木枠を取り除いて、煉瓦の形になった泥を天日にさらして乾燥させる。それだけである。
 そのようなものを何列も作り、乾いたらのちに使用されるときが来るまで一か所に積み上げて保存しておく。
 この土地で産出する泥は粘土質が多く、強固な煉瓦を作るのに向いていた。だがそれゆえ水分を含んだときの泥は非常に重たくて粘着力が強いので、作業をする男たちには強靭な体力と忍耐を要求した。
 実際、お礼の品を持って私が到着したときも、広場で作業をする男達は汗みどろで働いており、熱くてたまらないからか上着を脱いで裸になったその背中は、赤銅色に日焼けしててらてら輝いていた。そして私がこの街に入ったときと同様、自分の作業のこと以外は眼中にないように見えた。
 ――疲れているんだ――。
 にわかに私は理解した。これだけの炎天下、一日じゅう重い粘土質の泥と格闘を続けていれば、どんなに屈強な男でも、無口にならざるを得ないだろう。城門をくぐり抜けてふらりと街へ入ってきた異邦人を気にかけるような余裕など残っていないのだ。あの日は遠くから見ただけだったので細かな顔の表情まではわからなかったが、今日は間近で見ることができた。体力を振り絞って働く彼らの顔には、はっきりと疲労の色が浮かんでいた。
 作業場の横を通り、休憩所のテントに入った。
 外の熱気が遮られ、そこはまるで異空間のように快適だった。何人かの作業員が、小さな低い円卓を囲んでお茶を飲んでいた。私を認めると、意外にも人懐っこそうに笑って、手を振ったり何か声をかけたりしてきた。だが、私が言葉を解さないというのがわかると、仲間うちで何か冗談を言い合って笑い始めた。
 あの黒装束の女性を探してキョロキョロしていると、そのうちのひとりが立って、テントの奥のほうに入っていった。そして大きな声で誰かを呼んだ。それもまた、私の理解しない言葉だった。
 テントの奥から、お茶汲みのあの女性が出てきた。相変わらず全身を包み隠す真っ黒な衣装を纏い、頭部の頭巾のような布にスリットのように開いた隙間からわずかに目を覗かせている。
 私はその“目”に見覚えがあった。
 それは、昨晩、人気のない通りを彷徨うように歩いていた女のものだった。あのときと同じように、驚くほど澄んだ美しい白目に、とろりとした蜂蜜を連想させるグレーがかった大きな瞳。それはいまもまだあの月の魔力にとらわれているかのように、全体に青っぽい陰鬱な影を落としていた。
 彼女のほうに私のことを認識したという様子が見られたのは、私が倒れたときのことについてのようだった。あの夜道での邂逅については、彼女の瞳の中に浮かび上がってはこなかった。……もっとも、伝える術を持たない私には、そのことを確かめようもなかったのだけれど…。
 取りも直さず、私は精一杯の謝意を示して、深々とお辞儀をし、携えてきた果物の籠を彼女に差し出した。その間、自前の言葉ではあるけれど、いきさつについてのお礼と、彼女が命の恩人であること、親切にしてくれたことについて非常に感謝しているということを述べた。意味がわからなくても、せめて気持ちだけでも伝えられたら……という思いだった。
 ――そのとき、小さな奇跡が起こった。
 折しも休憩の交替時間で、お茶を飲んで体を休めた男たちが立っていき、入れ替わりに次のグループが入ってきた。そしてそのなかのひとりが、私がお辞儀をして自国の言葉で彼女に向かって滔々とうとうと申し述べているところを目にした。丸顔で小太りのそのオジサン・・・・は、いざとばかりに満面に嬉しそうな笑みを湛えて小走りで近寄ってきて、驚く私を尻目に、いま私の言ったことすべてを完璧に翻訳して彼女に伝えて見せたのだ。実際、彼女も私も周囲の皆も、その場に居合わせた者は全員目を見開きあんぐりと口を開けて、呆気に取られていた。
 
 彼女が私の渡した果物の籠を持ってテントの奥の方に戻っていくのを眺めながら、オジサン・・・・は自分の占めた座席の隣の座布団をポンポンと叩いて、私にそこに座るよう促した。私は咄嗟に身構えたが、その直後に彼の口から飛び出してきた言葉は、懐かしさに満ちて、まるで霧が晴れたように明るく、ものごとに焦点を合わせてくれるようだった。
「ほら、どうぞ。ここに座りなさいよ」
 ――異国訛りなのはもちろんのこと、持ち前の言語の持つ強い語調アクセントのせいか、幾分押しつけがましいような響きがしたが、彼のとてつもなく柔和な表情と、その声から滲み出る善人らしさが、すべてを和らげていた。従って私が彼の隣に腰を下ろしたのは、その強引さのゆえだけではなかった。
「……」
 私がある質問を投げかけようと口を開こうとすると、そのひと呼吸の間を埋めるかのごとく、オジサン・・・・せきを切ったように喋り始めた。
「私はね、あなたの国にいたことあるんですよ。もう三十年前だよ。仕事なかったからね、探して行きましたよ。みんなホントにいい人ね。たくさん、たくさん、良くしてもらったよ」
 彼の瞳は濡れて輝き、当時の記憶が甦ったのだろう、懐かしそうにキラキラと光っていた。
 聞けば、彼は二十代のころ、私の国の小さな街で、自動車修理工場に雇われていたという。仕事は楽ではなかったけれど、社長や住んでいたアパートの大家夫妻、近所に住む人たちやよく行っていた商店街の店のご主人など、多くの人の人情に触れて、この国が大好きになってしまったのだそうだ。
「私、十年いたよ。嫌な思いしたこと一度もなかった。お蔭でお金貯めて、国に帰って奥さんもらえました。ホントに、感謝感謝してるよ」
「そうだったんですか」
 そう私が言ったとき、彼女がお茶の準備とともに戻ってきた。盆の上には、お菓子と私の携えてきた果物が美しくカットされて皿に盛られていた。
「あ……いえ、これは貴女の為に持って来たものですのに……」
 私は通訳を頼むように、オジサン・・・・と彼女を交互に見ながら言った。オジサン・・・・は軽く肩をすくめながら彼女に何かを言い、彼女は言葉を返しながら、しきりにうなづいた。オジサン・・・・は言った。
「私にはこれをいただく権利があるんだよ。何しろここにいるコイツと二人であなたをエスメラルダのところへ運んだんだからね」
 そしていたずらっぽい表情で軽くウィンクをしながら、反対側の隣にさっきから黙って座っている若者を指差した。
 私はそこで初めて気づいた。思いもかけず、三人の恩人全員をいちどきに目の当たりにしていたのだ。驚きも束の間、すっかり恐縮してしまって、ただ何度も頭を下げた。オジサン・・・・はその様子を見て笑い、私の国にいたとき、人々は皆いつもその動きをしていたと言って真似をしておどけて見せた。彼女は黒頭巾のなかから笑い声を発し、寡黙そうな若者は、可笑しそうにクスっと笑った。眠たそうな目をした、端正な顔立ちの若者だった。
 
 結局、その果物を皆で分けて食べ、オジサン・・・・を介して色々な話をした。
 オジサン・・・・の名前はハシムと言った。若者の名前はナディル。外国から仕事しにやってきていた。
 そしてここで私は、彼女が“闇夜”という名で呼ばれていると知った。
 彼女の本当の名前を知る者はいない。聞いたとしてもかたくなに教えようとはしないそうだ。このことは、ハシムさんが私と彼だけがわかる私の国の言葉で話してくれた。
 “闇夜”は全身を黒装束で隠し、目さえほとんど覆っているが、お茶汲みの動作をするときにちらと袖から覗く手だけは、誰の目にも隠しおおせなかった。
 それは、焼き立ての炭のように黒くきめ細やかで、驚くほど艶のある光沢を放っていた。そして、その手を端緒とするならば、彼女の顔、体、足の先まで同じように黒いというのは自明の理だった。
「確かに、ここいらの女であそこまで黒いのはいない」
 ハシムさんは、彼と私にしかわからない言葉で言った。
 ――肌の色による彼女の出自に関しても、様々な憶測が飛び交っていた。人々は自由勝手に噂した。ある者は、彼女は西の大陸から結婚を嫌って逃げてきたのだと言い、またある者は、遥か東の亜大陸の南部地方の出に違いない、と言い張った。「あの辺は、黒い肌の美人が多いんだ」彼は言った。
 彼女がこの街に“定住”してから数年が経ち、そのあいだ一度もこれといったトラブルを起こしていないせいか、おおかたの住人たちの彼女への感情は、むしろ友好的なものに変わってきているようだった。特に日干し煉瓦工場で働く男たちのあいだでは、彼女は厳しい労働のあいだに美味しいお茶を出してもてなしてくれる、言わば“癒しの存在”になりつつあった。なかには彼女の物腰の柔らかさ、動きの優美さを賞賛する者もいて、きっと高貴な生まれに違いないと想像し、彼女に“黒オパール”という称号を与えたりしていた。
 もっとも、“闇夜”本人の側からしてみれば、話は少し違った。
 “宿屋エスメラルダ”の女将の言っていたとおり、彼女はまったくこの街に馴染もうとしてはいなかった。毎日仕事場へは来るが、自分の成すべき事だけを淡々と行い、休憩中の男たちと雑談を交わすことなど皆無だった。伏し目がちに下を向いて歩き、誰かと目を合わせることもしない。ひたすら世間から身を隠し、“影”に徹しているように見えた。
「黒い肌を黒のベールで覆い隠す謎の女。彼女の存在は本当に“闇夜”そのものだよ」
 ちょうど別の席から呼ばれて彼女が用事を聞きに立って行ったあとで、ハシムさんはそう言った。
「今日はあなたが同席していたから、彼女の笑い声を初めて聞く特別な機会になったよ」
 ハシムさんはまたそう言って、隣にいるナディルに同意を求めた。
 すると、端正な顔をした無口な若者は思いがけなく口角を上げて微笑み、その眠たげな目でウィンクをした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?