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「でんでらりゅうば」 第17話

 ――この村に偏在する〝低地症〟とか〝低地病〟と呼ばれる病気のことは、御影みかげ家のよし婆から聞かされた。老婆らしからぬ横に大きい頑健な体格の由婆も御年九十五歳、だがしっかりとした太い声の出る、男のように肝の据わった頼もしい雰囲気の婆だった。やはり身内だからだろう、どこかあの、御影の満おばさんを彷彿とさせる顔立ちをしていた。
 由婆の言うには、村で育った者は、低地に降りると体調が悪くなるという。幼いころからこの村のように標高の高い土地の気圧で育ったため、低地の気圧は体に合わないのだ。
「こげん場所やとに、若い者が多かろ。実はそれが理由たい」
 九十五歳とはとても思えない闊達かったつな声音で、由婆は言った。
「低地症……。聞いたことのない病気ですね。つまり、高山病の逆のようなことですか?」
 安莉は問うた。
「高山病ちゃどげんもんか知らんけんど、まあそういうこつやろうなあ。ここは相当標高が高かろ。ここで生まれてここで育った者には、低地は酸素が濃いいらしいったい」
 炬燵の布団を持ち上げて、胡座あぐらの足を組み換えながら由婆は言った。
「何でん、こん村の人間ん体質じゃあ、酸素が濃いいと体が酸化されるって言うとらすたい。赤血球ちゅうのが増えて、それが悪さするらしか。気圧が高うなるで脳の血管が絞られて頭も痛うなるんと」
 由婆は詳しかった。ほかにも「肺が圧し潰されそうな感じがする」、「空気が臭う」、「体が重く、すぐに疲れる」などの症状が出るという。低地に住みたがって村を出ていく若者たちが大勢いるが、そのほとんどが体を壊して戻ってくる。
 高麗先生が医療のことを色々と教えてくれるのだ、と由婆は言った。
「今の高麗先生はもう、何代目になるんかいのう……。わしは高麗先生は三人ばかし知っとるけどたい」
 由婆の言うには、古くから村人の診療を一手に引き受けてきた高麗先生は、山に自生する薬草について熟知しているという。病人の健康状態を見て、その都度薬を調合するが、先生と弟子によって毎年製造される定番の丸薬もあって、標高変化に弱い村人がどうしても低地に降りなければならない用事がある場合は、高麗先生の丸薬を飲んで行くと一定期間無事に過ごせる。ただしこれには個人差があり、人によっては一時間しかもたず、また三日ぐらい無症状でいられる者もいる。しかしこの薬はチョウトウコウという植物を主成分に作られ、一年に一回秋にしか収穫できないため、先生が作ることのできる丸薬は年に十個程度までだという。まれに村と低地を上り下りしても症状の出ない者もおり、郷の駅所長の古森ふるもりや世話役の阿畑あばたなどはそのいい例である。そのようなことは、生まれつきの体質と順応化訓練によって、村の幾人かに可能になっている。
「若いころ下ん村に嫁に行って、後遺症になった者もおってな……。そいがほれ、星名せいなしずじゃ。体悪うしとるとに、我慢して何年もおって戻ってきたけん、もう足腰も立たんごとなっちょる。高麗先生のお薬んお陰で、こん年まで生きさせてもろうとるがの……」
 体と同じように横に広い顔をしかめながら、由婆は言った。
「昔っからあんまり好きな女子おなごやなか。どうかぐろうて、、薄気味悪うてのう……。あ、ここだけの話ぞ。どこそこで言うないよ。……まあ、竜のそんやけんが、しぶといんじゃろうのう……」
 安莉は竜の一族の静婆に会ってみたかった。会えるだろうか、と由婆に聞くと、寝ているが話はできると由婆は言った。
 ちょうどそのとき、由婆の家の玄関に来客があった。それは砥石といしはつ婆だった。長老クラスの婆たちのなかで、唯一まだ足腰が達者で村中を自由に移動することができる。今、高麗先生のところから静婆に薬を持っていってやって、煎じて飲ませてやってきたと撥婆は言った。
「どげんやったかな、今日は」
 由婆が聞くと、
「ああ、ああ、ご機嫌は悪うなかったよ」
 と撥婆が答えた。
「会えますか? 静婆さんに」
 安莉が言うと、
「会うなら今日たいね。今日は機嫌がいいて言いよったい」
「ほんなこつ、今日がよか、よか」
 由婆が言い、撥婆が同意した。静婆は病気のせいで、日によって具合が悪いと人にも会わない。なので撥婆が様子を見てきた今日がチャンスだというのだ。

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