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【長編小説】 ヒジュラ -邂逅の街- 3

 ――ようやく訪れた柔らかな眠りにまだ落ちきらないころ、まどろみは突然破られた。
 窓ガラスのない窓から、これまで永遠に続くかと思われた静寂を打ち破るように、男性の声が飛び込んできた。
 明け方の、人々はまだ寝静まっているに違いない街の上に鎮座する空気を、この唄うような声は切り裂いた。何を唄っているのか皆目見当もつかないが、少し唄っては沈黙し、また唄い始めると切ないような上下する旋律でしばらく続いたりした。哀しいような、恋の歌のようでもあるが、遠くの人に呼びかけているかのようでもある。しばらく聴いていると、その旋律と声の振動は心地よく耳に馴染んで、うるさいというよりも、むしろ美しいもののように感じられてくるのだった。
 それは五分も続いていただろうか……。声が止むと、周囲の空気が一斉に慌ただしくなった。大勢の人々の動く気配。寝床から起き上がるような音、何か軽いものを床に降ろす音、ざわざわと小声で何か呟く声……。一定の間隔を置いて声は聞こえたり止まったりした。そして、密やかな衣擦れの音……。
 あまりの唐突な出来事に、私はベッドの上で身じろぎもせず聞き耳を立てていることしかできなかった。人々の立てるさまざまな、でもとても慎ましい物音のあいだで目を白黒させていると、やがてあたりは再びしんと静まり返った。
 一瞬静かになった街だが、朝の早い人たちはもう活動を始めるようで、市場へ向かう商人のような人たちが荷車を引いて前の路地を行きながら声をかけ合うのが聞こえた。普通の街のように、そこには人間の生活が息づき始めていた。
 その声や音に返って安心したのか、私はまた眠りに落ちた。
 
 
 ……どのくらい眠っていたのだろう? また延々と夢も見ない薄暗闇に浸っていたらしい。それは、数時間のことなのか、三日なのか、……それとも一ヶ月なのか……?
 この街に着いてからというもの、目覚めたり眠りに落ちたりの繰り返しで、意識があると思っているあいだでさえも、不思議な気分になることばかり起きるので、果たしていま自分が目覚めているのか、夢のなかなのかといったことも曖昧になっていた。―――そもそも、どうしてこの街にやってきたのだっけ?
 まだ気だるい、薄ぼんやりとした頭で、現実的な思考への道筋を辿ろうとしていると、まだそこまで行き着かないうちにそれは遮られた。
 部屋の木の扉が遠慮がちにゆっくりと開き、年配の女性が顔を覗かせた。顔は全部出しているが、クリーム色の艶のある生地に緑やオレンジの花模様の美しいスカーフで髪の毛と顎から下を厳しく隠している。好奇心の強そうなクルクル動く瞳は、目の醒めるようなみどり色だった。
「どうですか? よく眠れましたか?」
 きょとんとして彼女のほうを見やった私は、慌ててベッドの上に身を起こして居住まいを正した。そして、次に押し寄せた驚きに目を見張ることになった。
 そうだ。彼女は、私に理解できる言葉を話したのだ。
 故郷の言葉ではなかったが、ここで使われる言葉に比べれば私には何倍もスムーズに理解できる言葉だった。
「はい。お陰様で、とても……」
 私は嬉しくなって答えた。やっと自分が機能し始めたような気がして、自然と微笑みがこぼれた。
 その女性は、人の良さそうな笑みを浮かべると、そっと部屋のなかへ入ってきた。
「とてもお疲れのようでしたものね。どうですか? 気分は良くなりましたか?」
 部屋のなかの様子を確認しながら女性は言った。その身のこなしはテキパキとして丁寧で、人の世話をするのに慣れている人という感じがした。
 箪笥の上のバナナが一本しか消費されていないのを見つけると、女性は眉をしかめ、突然私の理解できない言葉で嘆息混じりに何か喋り始めた。そしてゆっくりと私の手を取り、下に一緒に来いと言う。
「肉のスープがある」
 と、彼女は言った。ベッドから引っ張り出した私を床の上に立たせて箪笥の引出を開けると、長い布でできた衣装を取り出して、瞬く間に着せてしまった。その動きには一切の無駄がなく、有無を言わさぬ母親の強制力のようなものすらあって、おそらく彼女が育て上げたのだろう何人もの子どもたちのひとりにでもなったような気分で、私は成すがままになっていた。――お母さんが甲斐甲斐しく子どもの面倒を見ているとき、いったい誰が邪魔できるというだろう――?
 彼女に着せられた衣装は、私の肌の色に似た薄いベージュ色で、言いようによってはこの建物の壁の色にも似ていなくもなかった。頭のてっぺんから足の先まで体じゅうを覆うようなつくりになっていて、最初はちょっと、ベッドシーツでも被って歩いているような感じがして落ち着かなかった。
 部屋を出ると、すぐ右のほうに小さな踊り場があって、階段が下へ続いていた。正面には、上の階へ上る階段があり、左手にはまっすぐ奥へ続く廊下が伸びている。窓がないので、先のほうは薄暗くてよく見えなかった。
 これも日干し煉瓦でできた階段は、長年の使用に耐えてへりの部分が摩耗しており、前方へ向けて斜めになっているせいで下りるときは前のめりにならないよう注意する必要があった。慣れない長い布を身に着けた私は、何度もすそを踏みつけて転びそうになり、そのたびに女性の固く握った手に助けられた。だがそのうち、裾をちょうどいい高さにたくし上げて降りるすべを覚え、目的の階に辿り着くころには、私はもうすっかりその階段を克服していた。そして、この布で全身を覆っているという感覚にも慣れてくると、一枚の布の内側は自分の体温と心地良くむつんで、それはむしろ、不慣れな土地にいることの不安から守られているような、不思議な安心感を与えてくれるのだった。
 私たちは、少し開けたフロアのような場所に出た。すると、女性は私を脇にある椅子に座らせ、ここで待っているようにと言った。美しいピンク色の布でできた暖簾のれんをくぐって女性が消えたあと、周囲を見ると、反対側にも下がっている黄色の暖簾の隙間から、細長い一枚板でできたカウンターが見えた。カウンターの上には宿帳が置いてあり、卓上式の呼び鈴まである。手前には二つ受付用の腰掛けがあって、通りに面した入り口のほうに向いて座るようになっている。私の側からは遠いほうの腰掛けに受付の女性がひとり座っているようで、彼女のまとう衣服の裾が見えていた。
 「ここは宿屋なのですね」
 差し出された温かいスープをいただきながら私は言った。
「そうだよ。“エスメラルダ”というんだ」
 女将は胸を張り、誇らしそうに言った。
 “エスメラルダ”とは、外国の言葉で、宝石のエメラルドを意味する。それが女将の見事な瞳の色に由来することは言うまでもない。女将にもこの街の言葉の名前があるはずだが、
「知りたいなら両親に聞いておくれ。もう何十年も、“宿屋エスメラルダの女将”で通ってるんだ」
 かっかっ、と闊達に笑って女将は言った。その両親は、もうずいぶん前に亡くなっているらしい。面白い女性だった。
「ここは保守的な土地だからね、こういう名前を宿屋につけるのも……」
 パンの入った籠を私のほうへ押しやりながら女将は言った。
「周りからはあまりいい顔をされなかったんだけどね。だけど、昔っからこの街をひと目見たいっていう観光客は世界じゅうからたくさん来ていたわけさ。だからこの宿屋を開くとき、外国からのお客さんにアピールするような、魅力的な名前をつけようと思ったんだ」
 女将のそのアイデアは見事に当たり、“宿屋エスメラルダ”には世界各国からの観光客が訪れるようになった。そんなお客たちと接するうちに、いくつかの言語を覚えたのだそうだ。
「あんたと交わしてるこの言葉を話すお客が一番多いねえ。あんたの国の言葉も、教えてもらいたいね。もしここに長く居るのならさ」
 元来人懐っこい性格なのだろう、すっかり打ち解けた様子で女将は言った。
 ここに、どれくらい居ることになるのだろう?
 不意にその考えが私の心を凍りつかせた。ただ、ただ、行くあてもなく、彷徨さまよっていたのだ。自分がどこから来た者か、何をしていたのか、そしてどこに行こうとしているのか……。
 いまは何も考えたくなかった。考えることができなかった。それどころか、そこに焦点を当てようとすると、まるで拒絶するかのように湧き上がる灰色の雲に遮られて、その先が見えなくなってしまうのだった。
「私がここにいるあいだに、女将さんはすっかり私の国の言葉を覚えてしまうでしょうよ」
 私はそう言った。
 “宿屋エスメラルダの女将”が供してくれたスープは、いままで味わったことのないくらい美味だった。羊肉のスープだ、と女将は言った。
「コツは羊の尾脂・・を入れて、最初にそれで肉を炒めることさ。あとは秘伝の香辛料のレシピ」
 女将は優雅にウィンクをして見せた。宝石のような碧色の瞳が広い瞼に一瞬だけ隠れ、またすぐにご褒美のように現れるのは、見応えのあるちょっとしたエンターテイメントだった。
 スープと一緒に出されたパンは、私の知っているパンとは異なるものだった。小麦粉に塩だけを入れ水で練ったものを、イースト菌を使わずに即座に丸い鉄板の上で焼く。熱によって少し膨れるが、時間が経つとしぼんでぺちゃんこになってしまう。ところが余分なものが入っていないせいか(女将の言によれば)、このパンは羊肉のスープにとてもよく合った。焼き立てのものを食べさせるために、私を待たせているあいだ、スープを温めながら女将はこのパンを焼いてくれていたのだった。
「お腹はいっぱいになったかい?」
 スープ皿をパンの切れ端で拭いている私を見ながら、女将はそう聞いてきた。私は本当に身も心も温まり、もちろん満腹であったので、この喜びと感謝をできる限りの言葉で伝えた。いまではこの豪快で懐の深い年配の女性に、私はすっかり心を開けそうな気がしていた。女将もまた、嬉しそうに満足気に笑っていた。彼女の少し特殊な瞳に湛えられた善意の泉は、口元からこぼれるこの年代の人にしては美しいしっかりとした歯列とペアを組んで、彼女の窓のない小さな台所の壁や天井を、明るく照らしていた。私は彼女をすっかり好きになってしまった。
 「ところでだけどね」
 食後のお茶を入れながら、こちらに背中を向けたまま女将は言った。
「あんたを助けてこの宿まで運んできてくれた人たちがいるんだ」
 私ははっとした。この宿で気づいたのだから、当然ここに運んできてくれた人がいるはずだ。女将にそう言われて初めて、私はそのことに気がついた。……日干し煉瓦工場のテントで倒れたのが、ずいぶん昔のことのように思われた。
「体調が回復するまで私が面倒見るよって言っといたんだけどね、あんた、具合が良くなってからでいいから、一度礼を言いに行っておいたほうがいいだろうと思ってね。やっぱり、筋は通しておかないと……」
 言いながら、最後のほうで女将の口調は歯切れが悪くなった。まるで助けてくれた人にお礼を言いに行くというのが女将にとってはあまり気の進まないことででもあるかのようだった。私は何となくそれを察して、聞いた。
「……何か事情でもあるのですか?」
 女将は振り向くと、茶器一式を盆に載せて運んで来て、ダイニングテーブルの上に置いた。そしてポットのなかに入れた茶葉と香草の調合を確かめるように、蓋を取ってなかを覗いた。いったん間を置いて、仕切り直しをしたいような様子だった。
「あんたを助けてくれた人っていうのはね……」
 そして、やおら話し始めた。
 
 休憩所で倒れた私を運んできたのは、あのお茶を出してくれた女性と日干し煉瓦職人たちだった。さすがに女ひとりの力では私を動かせないので、近くにいた職人に助けを頼んだらしい。急病人ということで、男たちはすぐに作業の手を止めて駆け寄ってくれたのだという。
 ――問題は、女性のほうだった。

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