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誰かに決めてほしくて、自分で決めたくて、矛盾を抱えた自分を愛したい

誰かに決めてもらって、誰かのせいにしたい。
決断するのが苦手だから、そう思ってしまう。

例えばイメコンなんてうってつけで。
「似合う」は天啓。
あなたはこんな人間ですよ、こんな姿で生きていってくださいね。
と、教祖が教えてくれる。
こんなに楽なことはない。

でも身につけているものを完璧に自分のものにしている人は、自分と向き合って、もがき苦しみながら、ひとつひとつ選び取っているように感じる。
そんな人は私には輝いて見えるし、そうなりたいものだなあ、とは思う。
けれど、自分で決断したら、自分が責任を負わなければならない。
自由には責任が伴って、幸せで苦しい。

もし自分ではない誰かの信者として生きていくなら、その責任は教祖へ擦り付けることができる。
生きる場所は狭くなるかもしれないけれど、楽で幸せだ。
敬虔で従順な信者として、修道服を纏って生きることにも美しさを感じる。

自分は、どちらにも振り切れない。
そもそも人間は、地球の外では息をしていくのだってままならないんだから、最初から鳥籠の中に閉じ込められているようなもの。
どんなサイズの鳥籠に住むことができるかは、運だったり、実力だったり、色んな要素で変わるけれど。
心が満ち足りるサイズの鳥籠に住むことができればいいんじゃないか。

体力・精神力に限りがある中で、曖昧さや矛盾を抱えて生きることは極力避けたい。
というのが理想なんだけれど、自分と向き合うたび、グラデーションの中で生きていくほかないと思い知らされる。

今まで一つも疑ってこなかった自分の性別だって、最近よくわからないし。

性的対象はわかる。
相手の心の性別はなんでもいいけれど、男性の身体が好き。
(この書き方はなんだか生々しくて嫌だな。)
生物学的な性別もわかる。
月のものがある。筋肉がつきにくい、女性の身体をしている。

じゃあ心は?と聞かれると、うーん。となる。
例えば、すごく曲線的で峰不二子のような身体がついていたら違和感がある。
(自分は曲線がなだらかで、そこまで違和感はないけれど。)
かといって、ガタイのいい男性の身体も、不安定で移り気な性格にはアンバランスな気がする。
(月のものがなくなってホルモンが安定したら、しっくりくるのかもしれない。)

あとは、かっこいいものもかわいいものも好きだし、かっこいい自分もかわいい自分もいるし。
でも、かっこいいから男なわけでもかわいいから女なわけでもないし。
じゃあ心の性別ってどうやって決めるのよ…と途方に暮れてしまう。
何をもって女なのか、何をもって男なのかがわからなくなった。

ああ誰かが全部決めてくれたらいいのに。たぶん無視するけど。

どちらか一方の人になろうとして、苦しくて、中途半端な自分に嫌気が差す。
けれど、「曖昧さも矛盾も全部ひっくるめて、これが私!」というメンタリティで生きたい。生きる。

かわいくてかっこいいし、綺麗で醜悪。
優しくて厳しいし、柔軟で頑固。
矛盾していて、全部正解だ。

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